32.冬のスカウティングとプログラム
スカウティングは1年を通じて休みというものがない。スポーツならば夏に出来なかったり、冬に出来なかったりするものがあり、いわゆるシーズンオフということがあるが、スカウティングにはシーズンオフはないのであるから、リーダーは冬でもプログラムをもたねばならない。
ところが実際、隊の状況を眺めると、冬季の12月は反省会とか忘年会、1月早々は新年の会合など、半ば行事的なプログラムによって集会をうづめることが出来るが、1月の中頃から2月、3月にかけては休隊状態に 陥る傾向がある、これは
(1)学年末で隊員の学校生活に余裕がなくなり、隊、班活動にこれが響いて欠席がふえるため。
(2)リーダーの方でも教員の人はこれと同じ理由で力をそがれる。
(3)寒さのため戸外活動がにぶる。
(4)室内集会にすることは場所、暖房などの手間がかかって引きうけてくれる人がない。
(5)寒いことから来る横着性――等々が、一般的の理由である。ただし土地の状況によって多少の差異はある。
以上のことは外国のスカウト界にもあるようで、従って冬のスカウティングについてのやり方が研究され、単行本になって出版されているようである。私の所感から申せば、これは結局、プログラムの貧困から来ることが、実際の原因だと思う。すなわち“種子(たね)ぎれ”状態が、たまたま冬季にばれた――馬脚をあらわした――と診断する。もし、プログラムが豊富であり、それの展開が隊員をかりたて、以上述べた冬のシーズンの不利な条件を克服さすだけの魅力があるならば、休隊状態に陥ることは充分免れ得られるのである。
ではそのような、魅力のあるプログラムはどうすれば作れるか? という本質的な題目にぶっつかる。そこでまず、冬――というものを研究せねばならない。指導者にとってのホームプロジェクトの第一歩はここに始まる。“冬将軍”の研究――。
冬というものがスカウティングの実施上、プラスに役立つ面と、マイナスになる面とがある筈だ。前記の(1)から(5)に至るファクターは、いづれもマイナス面である。こうしたマイナスファクターは、実は年中どのシーズンにでも若干あるので、冬ばかりに限らない。冬場が比較的高率、高濃度だというにすぎない。
ここで考え方を変えて、プラスの面を検討して見るならば、冬にしか出来ないことがいくつもある。冬の自然研究、霜、雪、霰、氷、濃霧を巧みに生かしたゲームや観察、救急法(結索を含む)、信号、方位、測定(測量)、追跡(雪中)、焚火(雪、風、氷上)と調理と後始末、冬の星座(1年中で最もよく見える季節である)それらを含めたハイキング、夜行ハイク、そのどれもが視、聴、嗅、触、味の五官の訓練を伴い、温度感覚、距離感覚、時間感覚を付加される。冬場あまりキャンプに行かないようだが、東京以南の西日本なら大体出来ぬことはない。
ただし山など高い所は避けねばならない。氷点下3度位までなら出来る。
室内集会となると、これは特に冬の魅力である。設備や場所に多少の難はあろう。だが、隊長は、隊委員と力を合わせて、室内集会の場所を是が非でも獲得してほしい。隊長の資格の一つでもある。ことに北日本の隊では、室内集会場をもたないならば致命的マイナスを来たす。
隊長を20年つとめたようなエキスパートでも、1人でプログラムをすらすらと年中立てられるものではない。
彼が職業的リーダーでない限り、時間的に無理である。もし出来たとしても、それが最良ではない。隊長は副長、副長補、隊付、上級班長と合同してテーマを選び、そのテーマを中心として次週から次々週まで、或いは月間のプログラムを作成することを本則とする。幹部訓練という面を忘れてはならない。隊長は隊員だけを指導するのでなくて、副長以下の中級幹部の教育をも行う義務がある筈だ。
これで出来たプログラムはいわば、幹部の行ったプロジェクトであり、ワークショップでしかない。これをそのままナマで班長に手渡して班訓練に流したのでは、班長や班のプロジェクト・ワークショップにはならない。
素通りで終わってしまう。どうしても、これをさらにグリンバーの訓練(班長訓練)にかけて、班長のプロジェクトやワークショップにしなければ身につかないし、彼等のスカウティングにならない。
このようにして、隊のプログラムは出来るのであるから、“種子切れ”のあろう筈はないのである。一人がいつも作るのなら種子ぎれはあるかも知れないが、たくさんの人々が、それぞれテーマを中心にプロジェクトしたり、ワークショップするのだから“3人よれば文殊のチエ”とやらで何か出て来る。この何か出て来ることがスカウティングの面白いところなのだ。またそういうふうに仕向けることがスカウティングだともいえよう。だから種子ぎれになった人は、スカウティングでないことをしていた――のではないかと自省されたい。
最後に結論を申し述べよう。以上いろいろとファクターをならべたのは、考え方のより所を作ったにすぎない。
また、プログラムを作る方法として幹部会、グリンバー集会などの段階を述べたが、それらは途中の駅であって終着駅ではない。終点は個々の少年である。実はその個々の少年のスカウティングのために、班や隊や、地区や県連や日連が奉仕し、成人指導者や育成会が奉仕しているのである。無論、それら各々にはそれぞれの立場においてのプロジェクトを通じてのスカウティングはあるけれども、これらは恒星であり或いは遊星であり、星群であり、星座であるにすぎず、太陽系の中心は太陽である。ボーイスカウト宇宙の太陽は、実に、個々の少年である。
従って真のプログラムは個々の少年自体を対象とされる。その個々の少年に一番身近いものは“班”である。
この班が立派な班機能をもっているならば、絶対に種子ぎれはあり得ない。
“種子は蒔いても芽は出ない。そのうちに種子はなくなった”とこぼす人は、土壌のあり方を検討して見るとよい。土壌(班)に欠陥があるようだ。酸性土壌かも知れない。そしていきなり、畑へ蒔かないこと、その種子を苗床(幹部会)に一旦蒔いて発芽させた後、分ケツするよう、グリンバーにおろし、班(土壌)ごとにそれぞれの要求する肥料を施して育てることだ。
冬の農閑には工作や救急法や、モールスの暗記など好適のテーマとなろう。
2月22日の“ベーデン・パウエルの日”(いわゆるB-P祭)の行事、2月12日の日連再建記念日の行事、それを中心としたスカウト週間の行事など、行事面もプログラムの中に生かしたい。
(昭和27年2月4日 記)
31.スカウト百までゲーム忘れぬ
相当の老頭児(ロートル)が陣羽織を一着に及んで子供と一緒に兎狩りをやった。大阪連盟のB-P祭の記念行事は誠に愉快な企画である。
私は妻から「オオドモのコドモ」という異名をつけられたので「大伴子朋」という筆名を用いることがある、まことに光栄である。
B-Pは“Boys man”(子供大人)という言葉を発明し、スカウターは、童心をもつべしと条件ずけている、子供と一緒に遊べないようなものは隊長になれない、というのである。
“Scouting”は“game”である――という言葉もこれと同じように名言である。もし我々が、日常生活までを一つのgame としてこれを楽しむようになったら、その人の人生はB-Pの理想に叶うのであろう。
学校の勉強も、試験も、就職も、そして職業も、結婚も、家庭生活も、社会生活も、病気も、失恋も、煩悶も、
死も、悉くをgame としてゆけるかどうか――私には自信はまだない。ただし、このことは、悪フザケにフザケた一種のニヒル的な態度とは大いに違う。と、いう注釈が入用である。それ故にgame とは何か? ということの解明が不十分であるならば、極めて危険である。ピストル強盗のようなものは、我々のいうgame ではないのである。ストライキのようなものもgame じゃない。
game は所詮「こころ」の問題である。形じゃない。従って、これは「わらべ、ごころ」(童心)がモトである。
然し、その童心とは、良識をはずれた無分別であってはならない。少なくとも「大人の童心」は良識そのものであらねばならない。そこに指導性が内包されねばならぬからである。邪気のない、曇りのない、作意のない、極めて自然な天真らんまん、天衣無縫の利害を超えたものである筈。
スカウティングをやっている仲間のみが味わい得る境地であろう。
今一つ、つけ加えねばならぬ。それは、game には必ず相手があり、仲間が出来るということだ。
人と人とのつながり、人に対する在り方、思いやり、Caie、covei 責任そして「励まし」「扶けあい」「協働」(CO-operate)などという、生き方が知らず知らずのうちに身につくようになる。
利己的、独善的な横紙破りはgame をぶちこわす。ルールを守り、他の人々と結ぶことによってgame は成り立つ。
「なんとう」誌が24号も続いたのも、game だからである。イヤイヤながら「仕事」として科せられたらモウ続かない。
“スカウト百までゲーム忘れぬ”“雀百まで踊り忘れぬ”と、いう言葉があるが、私にはそれよりかこの方がピンと来る。
(昭和32年3月21日 彼岸の中日に記す)
30.自分のプログラムというものをよく考えよう
この半年にわたって私は相当各地のリーダーと膝をまじえて語る機会に恵まれた。そして、何処でも、プログラムという問題で悩んでいることを訴えられた。その、いうところのプログラムとは何か、と、聞くと隊のプログラム、地区のプログラム…時として班のプログラム、それを、どう作ってよいかわからないので、日連できめたものを出してほしい、と言われる。私は前後して、カブの講習を応援のため、各県をまわった井上茂氏からも同じような訴えがあるときかされた。
そんなものを中央で作って流したならば、それは隊や班の自主性、否々個人の人権をも無視した統制団体、例えばヒットラー・ユーゲントや、大日本青少年団になりますぞ! と、M氏が警告したという話も耳にした。再建10年とか、日連35年とかいわれている今日、いまもってそんなタヨリないというか、少年団的な、一律他力統制がプログラムだと考えている人が割合に多いのに、私はガッカリした。どうしてこんなにみんなは奴隷になりたがるのだろうか?
プログラムは自分のプログラムに出発する。自分は今、県コミである、或いは隊長である。または理事長である、とするならば、自分が今しなければならないことは何であろうか? 何に一番努めなければならぬのだろうか?
ここにその人の今のプログラムが出発する。隊員においても同様である。学校の勉強もあれば、家庭の用事もある。スカウトの修行もある。それらを計算にいれて何年の何月に2級になり、何年何月までに1級になっておかないと受験準備が出来ない。と、いうように、各自めいめい別々のプログラムが立てられるべきである。
そういう個人プログラムを全然指導してやらないで、群集心理で作ったり、指導者の側の都合で一方的に作った班のプロ、隊のプロに便乗させようとするのは危険ではあるまいか? 勿論、班とか隊とかいうもの自体にも自体としてもプログラムがなければならない。組織体であり有機体であるならば「あゆみ」があるのは当然である。しかしこれは班や隊が果たして有機体であるかどうかという吟味、分析にパスした上での話である。寄り合い世帯の、烏合(うごう)の衆みたいな班や隊には、有機体としての生命力が欠けているから問題外である。
そんな問題にもならんような、形だけの班、形だけの隊の、班プログラムや、隊プログラムで、個々の隊員の、大事な生活のあゆみを縛ろうとする大人の横着さを私はにくみたい。だが、勝負はもうついている。縛りきれなくて子供たちは逃げていった。どうすれば子供を逃がさずにいけるか?
こういうイミで、大方の人々はプログラムに悩んでいる。――これが本当の姿ではなかろうか?
もし、私の、診断どおりであるとするならば、「あなたは、スカウティングでないものを、スカウティングだと思ってやっている。」と、忠告してあげるほかはない。
(昭和32年5月9日 記)
29.強制ということについて
親愛なるT君、お手紙ありがとう。お元気で何よりです。お手紙の中で、“スカウティングに強制ということ”が問題になっていることを知りました。果たして、強制ということがあり得るものかどうか、お質問があったので、この誌上をかりて私見を申しのべることにいたしました。
ある隊員が、隊長のいうことをきかない、とか、みんなと協調してゆかない。とか、班生活をみだすとか、集会に出て来ないとか、横暴であるかということは、スカウトが、もともとやはり人間である以上あり得ることです。これをなおすため、隊長が見せしめのため全員の面前で叱りつける、或いはある種の制裁? を加える――という意味から、「指導者に強制力ありや」という問が出たようですね。
ほかの言葉で云えば「教権」ありや――ということになります。教権ということは、既に、教育界でも論争があったことで、「有る」という人と「有りはするが濫用してはならぬ」といった人々があって、「無い」と断定した人はなかったようでした。もっとも、これは十何年昔のことで、現在はどういうか知りません。そんなことは、ここではどうでもよろしい。私はいわゆる「反抗」ということを、もっと検討して見たいと思う。「反抗」の本意がわかれば、それに対応する教育指導は考えられると思う。この研究なくして指導法のみを論じたのでは、変なものになりはしないか?
ある意味で私も一人前以上の反抗児であったので、「反抗」という文字には魅力をもちます。それで、ますますこの研究に興味をもちました。私は次のように「反抗」の種々相を分析してみました。
A.少年自身から発する反抗
これは、他の力への反発ではなく、その少年自体に原因があり、他人の力をかりずに、独力で反抗するものです。これには次のケースがあるようです。
a. 自分でもわからないが、本能的に潜在的に、したくなる反抗、ちょうど空気を呼吸するのと同じように、むらむら、自然に起きて来る。
b 自分の存在を示したい本能から、非凡なことをして、人の注目をひこうという、英雄的心理から来る反抗、やや無軌道ぶり、前後の見さかいがなくなる――これはスカウト年令の者には、量の多少こそあれ共通にもっている。
アプレゲールも、この部に属し、不良少年の出発点にも多い。
c ふとした思いつきから、反対のことを、やって見るという反抗、別に他意もなければ、悪意もない。一種のレクリエーションみたい。これは少年心理的に一種のバランスになることもある。動あれば静あり、静あれば動あり、といったような振子の作用のような、プロペラの回転のような、一つの前進運動か?
d 善いことは、すべて偽善である――ときめて「オレは逆コースを行く」という反抗。これはニヒル性反抗と診断しておこう。シニアースカウト年令にちょっと出る奴。
e 実際は外部(他)から誘発されたのでないのに、自分でそうきめて人を恨み、意趣返しの心理から起こる反抗。人から笑われた、馬鹿にされた、圧迫された、人権を犯された。――と自分できめ自分を卑下し、自分を嘲笑した末に、そのハケグチとして爆発する――時に暴力を伴う。――妄想的反抗、自家中毒症、被害妄想型。そのハケグチたるや、どこにどういつ出るのか本人にもわからない。まアこれはヒステリー的反抗である。
f 平和になるとシャクにさわる、平和を破って見たい本能から出る反抗、いわゆる事件屋的人物によくある、変態的な嗜好です。悪い道楽、イヤガラセなどする。「人生は斗争なり」という赤い哲学を生む。
g 勝利観念の異常に発達した少年によくある。敗ければアテツケイジワルという反抗を発し、勝てばゴウマン、傍若無人という反抗を表現する――これが勝ちつづけるとボスになる奴。
h 至って素直でない、ツムジ曲がりの児の場合で、イイワケしたり、クチゴタエしたり、モンクをつけたりする軽反抗であるが、少々ウルサイ奴、ヒチクドイ奴。
i 改善欲の盛んな少年にある現状打破、革新派、何に限らず現状では飽きたらぬ奴。これも反抗の一種、極めてよい場合も一面にあるが、朝令暮改でもある。
j 支配欲旺盛でなんでもリードしなければ治まらぬ、それには何かの立場を作らねばならないので、曲がっていても頑張るという勝気な子供に出る反抗の一種――これもボス型。
k 非妥協性の少年。他人と協調出来ない我がままから出る反抗。いつも番外扱いされる。自分もそれをよく承知しているのに協調しようとしない。
l 反抗のためにする反抗、アマノジャクである。反対反対へといつも出る。アーユートコーユー奴。これは多少誰にもありそうだ。愛嬌になることもある。
m 忠言癖から来るもの。一言居士的の反抗大久保彦左衛門流。
以上列挙して見ると、反抗にもいろいろある。先天的の性格から来るもの、自己防衛本能から来るもの、競争本能、支配本能から来るもの等々、というものが、隊長の意志と正面衝突する。衝突した瞬間、一々これを分析する余裕がないから、「隊長」は、「教権」に挑戦したな!…とばかり立腹してどなりつける。「親」にも「先生」にもこれはある。
ところがその大部分は、潜在している本能から出発していること上述のとおりである。このことは、反抗している少年ご本人にも、その自覚がない。そこで叱られている本旨が一向にこたえんものだから、叱る方はますます激怒する。――一体この取引は有効なりや? 恐らく無駄弾丸(ダマ)に終わるだろう。怒るだけ損ということ。
一体教育とは何であろうか?(ひらき直るようだが)それは、第一に本能の浄化(或いは昇華)にあるのではないだろうか。持って生まれた本能をよい方向にむける。本能をそのままに放任しておけば、人間は犬猫と何らちがわぬ動物になりさがる。その上、各人各様の性格をもち、誕生以来育って来た環境が、それぞれ皆異なるのであるから、教育は一筋縄には行かぬ。ワクにはめる「強制」というものは考えられない。
もう一歩考えを深めるならば、成人指導者の側から名づければ、それは「反抗」と名づけられるだろうが、子供の側からいえば、それは反抗ではない。ではそれは何か? 私は子供のために、あえて弁護してあげよう。
(子供は表現力が一人前ではないからね。)よく聞いて下さいよ。隊長さん達。どこの国の子供でも、どんな子供でも「僕はこれだけ成長したよ」といって、親にも兄さんにも、先生にも、隊長にも「見てもらいたい」のです。「認めて貰いたい」のです。身長が何センチ延び体重が何キロになった――というように、心の成長をも認めてほしいのです。ですが、それをどう表現したら認めて貰えるのか? 子供の乏しい表現力では大人に通じない。
ここで世界で最大の悲劇が生まれているのです。どう表現すれば認めて貰えるか? いろいろ試しているうちに、成長なんていう重大なことをとかく見のがしがちの大人どもは、生意気云うな! とすぐ云いたがる。この発信者と受信者との未熟練から、意思が疎通せず、子供は業(ゴオ)を煮やし、大人は短気になり、「反抗」は成作されるのです。ですから、反抗――とは、大人と子供合作の演出劇ですね。
考えてごらんなさい。万有引力が働いて、雨も天から地に向かって降る世の中に、なぜ草や木は逆に地上から上に伸びるのでしょうか。
私は成長とは反抗だと思います。反抗なくて何で草木が伸びうるでしょう。ですが、大宇宙の心は大きすぎます。この反抗をだまっています。
草木はその大きな心に甘えているからです。私は反抗とは甘え得る者のみがなし得る特権だとね…。」
これは私が青年時代に書いた下手な脚本の中の一対話です。
要するに、以上のAに属する反抗は、各人各様のもので、その起因もいろいろのケースがある。彼は「成長権」を叫んでいるのに、我は「教権」で渡り合い、「強制」せんとするようなことは、およそ悲劇(喜劇?)の骨頂であって、いわゆる「反抗」をして本物の「反抗」に育てあげる結果となり、世に流行の逆コースとなりはしませんか。どうもリーダーのサインのつけそこないのように思います。
次にBの分類――ほか(外部)からの原因によって起こる反抗、これにまず(a)(b)ありとする。
a 暗示にかかり易く煽動されて反抗派の代表となって反抗する。
b 自分には反抗の意志はないが、皆から推され、或いは義侠的に買って出て反抗する。
二つとも学校ストライキによくある型です。前の英雄型も多少含んでいる。これは要するに自己の意志の弱いことが主因です。すなわち自己本来のペースがない。いつも他人に引きづられる。大変危険人物です。これには、もっと「自己」を知らせる教育が必要です。それには彼の「特技」を発見させ、これを伸ばさせて、その特技を通じて「分担」と「責任」とを体得させ、それによって「自己」というものを知らせ、自己の在り方を知らせることが大切でしょう。「分担」から「全体」がわかって来ます。
例の義侠心も、この土台の上で発揮されれば聡明(分別力)を伴ったものとして賞賛に値します。自己のペースを知らんということはなんとしても不聡明のことです。いつも他人に引っかき廻されていては、どこに彼の「生活」があるのでしょうか?
次はc項。これは彼の班生活から来る反抗です。すなわち班の他の者との折り合いが悪いとか、ウマが合わぬとかいうことが原因になる。
a 班長の固癖と彼の固癖の衝突。
この場合、班長は強制的に出ましょう。ところがそれが、その班の伝統的精神(フンイ気)に合致していれば正当化されるが、班長それ自身の独断(ワンマン)や、固癖が基準になった圧力であるならば、これは班長自身がまず班精神を犯している次第でお話にならない。
b 班員が多数決をもって、彼を圧迫するため起こる反抗。
抑々善いから多数決になるので、多数決だから常に善いのだという逆説は あり得ない(日本人には、この逆説の方しかわかっていないことが多い。)前者の場合その圧力は正当化されるが、逆説 の方であるならば、彼の反抗の方が正当である。
a・bともその判断の基準は班精神である。日本BSの現状ではそこまで班制度が育っていないように思います。そんなことでは「ボーイスカウトは行方(ゆくえ)不明」です。
最後のd項、これは隊長が「反抗」の原因を作る場合です。私は次の諸項を列挙して隊長の反省の資料といたしたい。
次のことが「反抗」の原因になる。
a 隊員にあることを説明する場合、その表現に研究の要なきや?
イ.自分だけにわかっていて、聞き手(ことに少年)に意向が汲みとれぬ。
ロ.あまりくどくどしくて反感をもたせる。
ハ.あまり命令的、強制的で反感をもたせる。
ニ.態度が気にくわぬ。
ホ.あまり表現が下手(へた)で、混雑させる。
ヘ.大人言葉では子供に通じない。
ト.少年心理に合わぬ表現。
b 旧軍人式の号令、命令口調(くちょう)が出やしないか?
c ガイダンスの不備
少年から引き出すことをしないで押しつけやしないか?
d 興味を呼び起こさすことを忘れ、興味を押し売りしてはいないか?
e 自律自発にもちこまないで他律的になっていないか?
f 討議せず隊長の一存で臨んでいないか?
g 試行錯誤をやらせないで短気に成功を急ぐことはないか?
h 成長ということを考えていないのではあるまいか?
i ユーモアに欠けていないのか?
j 「寝ている人を起こす」ように、隊長自身の出来ぬことをやらせていないか?
k みんなの前で叱っていないか?
l ほめることの方が叱るより効果あることを経験していないのではなかろうか?
m 自制自戒に訴えるため「手紙」による指導をしているか?
これは何月何日何時(就寝の頃)開封せよ――と記した手紙をそっと本人に渡す。手紙文には、隊長の愛の心のこもった訓諭が書いてある。それを寝てから読めば必ず反響がある。
n 「ちかい」「おきて」を他律的な攻め道具にしてはいないか?
o 「おきて」の本文とは注釈文も含んでいる。注釈文にしても、実はあれも本文なのだからよく読ませて自戒させること。
私はイギリスの“スカウティング フォア ボーイズ”、アメリカの“ハンドブック フォア ボーイズ”、“ハンドブック フォア スカウトマスター”を見ても「強制」ということを発見しません。“エイズ ツースカウトマスター”には、いかにして隊員をキャッチするか?――という所がある。
結局、隊長が隊員を充分にキャッチしていないのが根本の原因だと思う。充分キャッチしておれば、「強制」を発動する必要はないのではあるまいか。
なお、これを一つの資料として、円卓会でプロジェクトしていただき、私へもその結果をおしらせ願いたいと思います。この説に「反抗」されても怒りませんから。ただし私は決して「反抗」を美徳としたり、奨励してはいません。最後に一言!
(昭和27年3月20日 記)
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福岡中地区事務局ニュースVol.4
*今週・来週の行事予定*
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1月25日(月)
1月26日(火)
1月27日(水)BSーRT(19:30~/高宮SH)
1月28日(木)
1月29日(金)
1月30日(土)県連スカウト活動委員会(10:00〜/プール応接室)
1月31日(日)県下地区コミッショナー会議(19:30〜/そぴあしんぐう)
2月 1日(月)中地区コミッショナー会議(19:30〜/高宮SH)
2月 2日(火)
2月 3日(水)継続登録事務受付(19:00~/高宮SH)
2月 4日(木)
2月 5日(金)VSーRT(19:30~/高宮SH)
2月 6日(土)
2月 7日(日)継続登録審査会(9:00~)
*2/11:15NJ保護者説明会
28.少年がBSから逃げていないか
Boys are in scouting because they want to be and not because they have to be. They stay as long as the program satisfies them and only as long as it holds their interest and enthusion.
“少年達がスカウティングしているのは、したいからしているのであって、せねばならぬからしているのではない。彼等はプログラムが彼等を満足させる限りにおいてのみ、とどまり、そしてプログラムが彼等の興味と熱意とを保持する限りにおいてのみとどまる。”
この面白い言葉はアメリカの“Commissioner Service Manual”という書物にあるものである。実に端的にものの道理を説破している。英文としても中々面白い文章と思う。
一体日本のスカウティングは現在の処、何をもって少年達を引きとめているだろうか? と反省して見るのである。恐らく少年達はバッジや服装にチャームされ、キャンプやハイクに引きつけられ、一風変わった三指の敬礼やスカウトサインに一種の魅力を感じて、辛うじて隊員たることに満足しているのではあるまいか。
もし、それ以上のもの、例えば班生活の味わいとか、責任と義務の喜びとか、いうものでスカウトがやめられない分ならよろしい方である。最初は物珍しいからよいものの、キャンプの5~6回もして、こんなものか――と珍しさが薄くなると、丁度2級に半分なった頃になると、段々集会にも来なくなり新制高校に入る頃になると逃げてしまう――というのがありはしないか?
これは指導者の教養の不足、経験の乏しさもあろうが、それならそれでproject しようという熱の貧困の方が大きい。一年もすれば種ぎれになる。資料をかき集めるのはまだよい方で、それさえやらない。日本のBSは目下のところ指導資料が貧弱であるから探し求め得ないことも同情に値する。
英文の読める人達だけがアチラの資料を何とか利用している。けれども私は罪を資料難に帰するだけではイクジがないと思う。問題は指導者の創意工夫の欠乏、換言すればプロジェクトの不足に訴えねばならない。それよりもさらに何故子供達にプロジェクトさせて良いプログラムを自分等で作るよう仕向けないか? ――という点である。
経験のある大人でさえも中々プログラムを考案しかねるのに、まして、もっと新米で智能も低い子供にそんなことが出来るものか――と云う人もあるかも知れない。無論イキナリ立派なプログラムが出来ようとは予測しない。けれども、そういう方向に教育することがスカウティングではないであろうか? いつも大人の幹部の立てたプログラムや県連のプランした行事への参加ばかりに隊員が動かされていて、それでスカウティングなんだろうか?
前記の英文の言葉は指導者に対するボエンであって、プログラムもよう立てられんような指導者だから子供を逃がすのだ――という逆説的なイミを含んでいる。その点で天下りのプログラムを指しているようである。勿論指導者にその能力がないということは、指導者として致命的な欠陥である。といって、彼がプログラム編成の名人であったとしてもそれ故に彼が立派な指導者であるとは申されぬ。というわけは、子供にそれをやらせないからである。
子供にやらせないということは彼が名人であって得意だからだ。その結果はどうか? 彼は巧みに子供をアヤツっているが、子供自体は少しも育たないのだ。依然として、子供達は「せねばならぬから」やっている。という形だ。下手でもよいから子供にやらせる。そして作ったものをディスカッションする。評価する。そこに教育があり、子供は育っていくのではあるまいか?
得意になって指導者が引きずり廻している間は教育の教だけの世界であって、育はお留守になっているといわねばならぬ。子供にやらせるには、そこに分担というか割当(assignment)が必要である。割当はその各の子供の好きなことをとらせる。割当られた子供は責任と興味とを感ずるであろう。これスナワチ云うところのプロジェクト教育法の出発である。
次に子供は観察推理工夫をするだろう。指導者はそれに「方向ずけ」(orientation)をすればよいのだ。これがスカウティングの本道であって、その本道を歩く者がスカウトである。
服装やバッジに心をひかれている間は、まだカワイラシイ卵である。それが孵化しなくてはならぬ。それも大きいスカウティングの一つのプログラムだから大事だ。コワシてはならない。
(昭和25年9月12日 記)
27.自分に敗けない
6月24日から、私は少し無理がたたったのか、肝臓の周辺大動脈のあたりの腫脹のため、静養することになり、今日で正味1カ月、自宅で坐業している。この好機にかねてから着手していた、B-P著「The Wolf cub's Handbook 」の全訳を目標に、日々炎暑と戦っている。そしてすでに1カ月となった現在、第Ⅲ部(指導者用)を訳了し、前の方に戻って、第Ⅰ部(カブ用)を進行中である。これは、コドモに読ます部分なので、用語、文字、文脈に一方ならぬ苦労をしている。ことに、新送り仮名法が発表された折りも折りとて、その苦心は並大抵ではない。毎日8時間平均、ペンと辞書を友として、汗をかいているのだが――。
頭の中では、「自分に敗けない」――これをモットーにしている。
英国カブのロウ(さだめ)は
1.The cub gives in to the old wolf.
1.The cub does not give in to himself.
の二ヶ条である。
恩師、佐野常羽先生は、戦前、これを邦訳して――
1.目うえをうやまう
2.わがままをしない
とし、日本のカブのおきてにされた。先生がgive in を「うやまう」とし、give in oneself を「わがまま」と訳されたのは、きわめて日本的、または東洋的で、結構であるし、敬服している。リズミカルな点もよい。
ところが、このHandbook を訳しているうちに、いろいろ出てくる例話をとおして、私は「give in」を本来の訳語の「したがう」に「does not give in to himself」を「自分に敗けない」と訳した方がぴったりすると考えて、そう訳しておいた。
その後、同書の旧訳本「幼年健児教範」(大正16年1月日連刊行)によると、
一 幼年健児は年長健児に服従します。
二 幼年健児は自分に降参しません。
という訳になっている。この訳は多分、当時の日連参事、奥寺龍渓さんの訳だと思う。(奥寺氏は、既に故人、沢山の良書を邦訳された)
さて、「自分に降参しない」という表現力はなかなかおもしろい。当時のコドモには、コウサンという言葉が日用語だったからである。しかし、今日のコドモの用語は、コウサンなんて漢語より、「まけない」の方が親近感があるのではなかろうか?
「わがままをしない」ことは「自分にまけない」ことから生ずる行動的な面をもつ。しかし、同書のB-Pの示した例話をみると、「がんばる」とか「しんぼう強い」「屈しない」という語の方が的中する。いづれにせよ、「自制」であるが、私は「まけない」という訳語をとったのである。少年、年長、青年スカウトの「誘惑にかからぬ」の前提になるとして――。
とにかく私は、7年前、59才の時、「スカウティング フォア ボーイズ」を訳した。あの時は実働121日で訳了した。そのレコードに、まけてはならん、出来れば新記録を出したいものと、「自分に克つ」「自分にまけない」を実修中である。
万一、日本ジャンボリーに参加が出来なくても悔いないつもりである。
ことは肝臓疾患に発生したのだから、キモに銘じて忘れず、キモをつぶさぬよう、ねばること肝要々々。
(昭和34年7月24日 記)
26.新春自戒 ジャンボリー
今年は、第10回世界ジャンボリーと、第2回日本ジャンボリーの年である。
ジャンボリーなるものは、スカウトの祭典にちがいはないが、単なるお祭りさわぎには反対である。
戦後、諸外国の人々との往来が、航空機の発達にともない、はげしくなったため、鎖国的な日本人も、外人と接触する機会を多く持つようになっては来たものの、地つづきの大陸民に比べると、まだまだ“give and take”する機会が少ない。
そこへさして、戦後、日本にも混血人が殖えはしたものの、日本という国の国民編成は、あたかも、単一民族であるかのように、まとまって実に平和である。他国ではなかなかそうではないのである。
人種、民族、信教、国語、文字を異にする人間を、抱き合わせている国が大変多いのである。
それだから、おきて第4は、そういう差別を超えたヒューマニズムな「友誼」を、勇気を出して実行するよう、スカウトたちに望んでいる。
「スカウトは友誼に厚い」だの「スカウトは総ての人を友達と思い、総てのスカウトを兄弟として、正しく明るい社会を作る」――というような、誠に平盤、単調なおきてではないのである。もっと切実な、具体的な、国としての、悩みと苦痛を、治療せねばならんという祈願が、外国のちかい第4にうたっている。(スカウティング・フォア・ボーイズP17参照)
1937年、第1回インドジャンボリーにあたり、眼前に、第5回世界ジャンボリーが、オランダで開かれることがわかっておりながら、インドにおける人種、民族、宗教、そして印度独特の、先天的階級制度(種制――カースト――という)による、人間同士の闘争、反目、アツレキ、陰謀――それは生死、生命に関する――を必配し、ひいては大英帝国の統治の上に、これが大きなガンとなっている。この国難の打開という点からも、彼の「国に誠を尽くす」という実行の上からも、B-Pはもう立ってもいてもおられず、永い船旅をして印度にわたった。 時に、B-Pは80才の老人であった。しかるに、釈迦さえ達成できなかったその解決を、scouting は立派に達成していた。集まってきたバルテス族や、ベンガル族の少年たちは、仲よくキャンプをし、「もう、ぼくたちの時代は、お互いに首狩りをせずにすむね――」と云っていたという。(レイノルズの書物The scout Movement より)
ジャンボリーの本質は、このひとこまに要約されると思う。
ゲームを通しての、ヒューマニズムの実践――これである。(「スカウティング」昭和33年8月号 P1B-P生涯の絵物語の南亜と印度の項参照)
私はジャンボリーの企画者も、隊指導者も、よくこの点を心得て企画し、参加スカウトたちに了解させておいてほしい。と思う。私は、ジャンボリーを、単に訓練の“give and take”の場なり――と片づけてしまうに忍びないのである。前述のように、異人種、異民族、異宗教徒について、あまりにも接触する機会の少ない日本のスカウトたちにとっては、ことのほか、おきて第4実践のよきチャンスだということを指摘しておきたい。こうした努力の足らなかった点を自ら戒める。このことは、次の段階では、おきて12「スカウトはつつしみ深い」につながってくる。「スカウトは信仰の心をあつくして、そのつとめに励む。しかも謙譲の心を失わず、他人の信仰や主張や風俗を軽んじない」
即ち、世界的公民資質を、「実行することによって学ば」させる「場」――それが、ジャンボリー、特に、世界ジャンボリーの目的ではないかと思う。
今まで、その分析の足らなかったことを自戒する。結果的には、世界平和運動に寄与するであろうが、そうかといって、世界平和運動や、国際運動のために、ジャンボリーをやるのだ、といいきることに対しては、私は異議がある。
スカウトである私(我々)は、まず、その行動の第1歩を、いずれの場合でもちかい、おきてから踏み出さねばならない。そして、その実践(プロジェクト)の結果の反省や評価の終点は、これまた、どんな場合でも、ちかい、おきてに戻って、分析し評価されねばならないと思う。だからこのスタートラインと、ゴールラインとを無視した進行そのもの、運動だけのものを見て、それが、カリキュラムであるとみることは、早呑み込みであり、マトがはずれている。と、私は自ら戒める。
(昭和34年1月1日 記)
25.B-Pはおきて第4をこのように実行した
英国の、おきて第4は――「スカウトは、全てのものの友であり、他のスカウトたちと兄弟であり、その者の属する国と階級または信条(creed)の如何を問わない。」
日本の、おきて第4は――「スカウトは友誼に厚い。スカウトは総ての人を友達と思い総てのスカウトを兄弟として、正しい明るい社会を作る。」と。
読者は、以上の二つをならべてみてどう思いますか?
私は、日本という国が、その昔は色々な人種民族の混在していた国であるが、今では、まとまった融合されたものになっているのに感謝する。それも小さく分析すれば、部落問題などのシコリが残っているかも知れないが、他国と比べるなら問題ではない。あの近東の、アラブ対イスラエルの対立などとは比較にならない平和国家といえる。
英国は、なかなかそうはゆかない。特に1600年代以来の発展によって多くの海外領土をもち、幾多の異民族を含めた大英帝国としては、その統治は容易ではなかった。カナダ、南アフリカ、インド、オーストラリアなど、現在次々と独立国となってしまってはいるが、大英共栄圏としては、今なお多種多様の人種、民族、宗教徒を抱いているのである。だから、おきて第4のいい方は、対内的にも通用する表現を帯びている。
今では、インドはインドとパキスタンの二つの国に分かれているが、昔は一つであった。そして、インド教徒と回教徒が対立していた。このほかに種姓(caste)という生まれながらの階級が、千何百階級にも分かれていて、上級の者は下級の者にモノも云わない。昔、釈迦が仏教をおこしたのも、実はこの悪習を改めて平等に「一切衆生」とみる仏の慈悲を投影し、生病老死という現実からみて、これは万人に共通する四苦であるから、差別の世界から超えて共通の広場(仏の世界)に出なければ救われないと説いた。しかし、成功したであろうか?
B-Pは、そのインドで青年期と中年期をすごした。だからインドの悩みをよく知っていた。ベンガル人にはベンガル人の血が流れ、パンジヤブ人にはパンジヤブ人の血が流れている。血と血は相対立し相争った。食人種は、その血をすすって歴史を誇った。
こんなことでは、インドだけでなく大英帝国としても永久に平和は来ないのである。
スカウティングの力で、これを何とかしなければ、おきて第4は空文死文となってしまう。
B-Pはいても立ってもおられなくなって、1937年(昭和12年)インドへ行った。時にB-Pは、80才であった。これを機会に、第1回全印ジャンボリーが、デリーで催された。
E. E. Reynolds 著“B-P”の115頁をみると「夢は現実となったようだ。すべての宗派、すべての種姓のスカウトたちは、スカウティングという大旗のもとに、彼等は一体となって、みんなのチーフを迎えたのである。この広大なる国のスカウトたちは、すでに、隊々での健康運動や、宗教的儀式の実行によって、この訓練の価値を立証していたのである。」と記している。
Bay Burnhan とKenneth Brouken 共著の「B-P生涯の絵物語」(日連発行スカウティング誌上の連載)の中に、このジャンボリーで、初めて立ち会ったスカウトたちが、仲よくキャンプしている絵があり、僕たちの親の代までは食人種で、互いに食いやいをしていたのに――という説明が載っている。
B-Pは、ジャンボリーという共通の広場で、おきて第4を実現、展開させた。「ジャンボリーの目的は、一体何ですか?」という質問に対して、「おきて第4の実習です。」と答えてまちがいはない。
今一つ、B-PはPen-Pal、即ち手紙による未知のスカウトとの接触を励行した。メーフキングの英雄から、返事を貰う少年のよろこび方は、想像にあまりがある。スカウトは互いに兄弟という実行の多くは、未知のスカウト同志の間で行われる文通による。
1922年、Bruce 将軍一行がヒマラヤ探検にいった時、B-Pは一通の手紙をKalinpong Himalay an Home
に在るスカウト隊に託した。この隊には、かつてB-Pが訪れて写真を与えたことがある。託した手紙には、――地図上、インドで一番高い所にある隊よ、スカウトの腕前でも最高であれ――と。
1933年、D.C.C.のH. W. Hogg がB-Pに送った報告書に――人界から遮断された13、000乃至14、000の裸岩ばかりの山中に、村があり、その村で私はスカウトを何名か発見した。Jot では、カブ隊を見つけたが、この村は7日間歩かねば文明社会に出られない。(以下略)
これは、パンジヤブ地方の話である。(Reynolds 著“The Scout movement”162頁より)
このように、インドでスカウティングが成功したのは、全く、B-Pの偉大さによる。スカウティングという教育法が、いかにあの抗争のインドを平和にしたか、証明になる。
釈迦が、達し得なかった大仕事を、B-Pは30年にしてやりとげた――と云うて過言であろうか?
カナダにも南アフリカにも、これに類する実績がある。
日本のような、平和な、単純な、結構な島国の国民は、この種の悩みがないから、従ってスカウティングの有り難さもわからないのではあるまいか?
B-Pという人は、おきて第4だけを実行したのではない。すべてを実行したマコトの人である。
私は「隊長から、一度もおきての解説をして貰ったことがない。」と、いっているスカウトを知っている。何をかいわんやである。
(昭和33年4月2日 記)
24.スカウトの精神訓練
北海道のスカウトの皆さん。新しい年を迎えておめでとう。みんな元気ですか。わるい感冒にやられた人はありませんか。雪国のお正月というものを知らない私には、想像しか出来ません。
さて昨年1年中の、めいめいのスカウティングを反省されたことと思います。なんといってもジュビリーの年ということで、去年はいろいろのことがありました。
今度極東委員会が出来たので、アジア各国の、スカウティングが一層、躍進することになると思います。スカウトの人数からいうと、日本はアジア諸国の中でも、インド、フィリピン、パキスタン、タイなどより少ない。
少ないということは残念ですが、これらの国々は、ほとんど、政府または国家の事業としてやっているから多いのです。
日本のように有志の者が金を出し合ってやっているのとちがいます。しかし、スカウティングは、元来、有志運動なのですから、やり方としては日本の方が正しい。正しいのに、日本はスカウトが少ない、ということは、我々スカウトに責任があると思います。よく父兄や先生方や一般人の理解がないとか、足りないとか、従ってお金も出来ないとかいわれますが、これはあたりまえのことです。なぜだろうか?
それは――スカウト達が日々の善行に励んで、人のため、世のために尽くしていないからです。また、ちかいと、おきてを本当に日々守っていないからです。もし、これらに努めていて、立派な生活をしているならば、世人はスカウトはよいものだということを、おのずから認めるでありましょう。認めてもらうために、善行をしたり、ちかい、おきてを守るのでは無論ありません。よい生活、スカウトらしい生活をしていれば、自然人の眼にそれがうつるということになるのであります。
近頃、文部大臣は、道徳教育をやる。と、いい出されています。それについて、よいとか、反対だとか、方法はどうするのかなど盛んに論議がたたかわされていますね。
私はスカウトの立場から、これを考えてみました。
道徳とは何か? これだけでも、色々の定義が出ましょう。私は、仮に、これをモラル(徳性)としておきます。このモラルというものは、センス(感性、感覚)によって出来上がる。センスがよいセンスであれば、モラルもよくなる。センスが低ければ、モラルも下劣になる、と思うのです。こう考えてみると道徳教育の今一つの手前に、センスの訓練がなければならん、と私は思う。
ところが学校の教育では、センスの訓練をやっているかどうか? センスに関係のある情操教育は音楽や図工でやったり、国語でやっています。しかしこれは、センスの訓練そのものとはちがう、と思う。視聴覚教育が叫ばれて実施されてはいるが、視覚、聴覚を媒介として知識を修得するもので、方法にすぎない。視覚、聴覚、そのものの訓練ではなさそうです。
ところがスカウト教育は、センスそのものを訓練している。追跡にしろ、信号にしろ、結索にしろ、みんなセンスそのものを訓練している。センスの訓練を狙っているので、追跡屋や、信号師や、結索師を作るのが目的ではない。
こう見てくると、スカウト教育は、センス(感覚)訓練に大きな比重をかけていることがわかる。それをさらに強化したものが、技能章であります。技能章は、それぞれの技能を身につけるということも目的の一つではありますが、同時にこれは、高度のセンスを磨くためのものだと私は考えます。
今は亡き、ローランド・フィリップスという英国の初期の代表的スカウターの書いた「班長への手紙」の第1集を私は訳してみましたが、その中に彼はこう言っています。
「ちかい、おきて、を実行しなさい。ちかい、おきてを実行する方法は、とりあえず技能章をとることから始まるのです。」と、私はボウ然としました。ちかい、おきてと技能章と一体どういう関連があるのだろうか?
ちょっと見ると、そうたいした関係はなさそうなのに――。
これは皆さん結局、スカウトセンスと、スカウトモラルの関係を、フィリップスは説いていると思うのです。
即ち、ちかい、おきては、スカウトモラル(徳性)の基準であるが、その基準に達するには、スカウトセンスを磨かねばならん。そのスカウトセンスは、進級課目によっても磨くが、高度のセンスは技能章によって磨くのであるから、とりあえず技能章をとること。と、いうことになりそうであります。
ところが私は、去年ある人から「技能章をいっぱいつけている者ほど精神訓練はゼロでした。」と、いう報告を耳にしました。この人はフンガイしていうのに「彼等は、技能章をアクセサリーまたはかざりと考えている。ケシカラン」と。
私は、先の、フィリップスの言葉と照らし合わせ、こうもちがうものか、と、あきれたのです。即ち、技能章を、ただ技能章だけに考えている。ちかい、おきてとの結びつきをしていない。ここにまちがいがあるのです。
「スカウティングの全ての作業はことごとくが、ちかい、おきてに結びつけられねばならない。」と私は結論づけたのです。
ここに、一つ、英国流の面白い考え方を紹介しましょう。このローランド・フィリップスが「班長への手紙」第一集で、おきての説明を書いているのですが、その中に、日本でいえば、おきて第9の質素(英国も第9倹約)について、次のような意味のことを書いている。
――スカウトは質素である。倹約するというが、そのためには、救急法を知らなければならない。無駄な金をつかわないで、これを貯金save すること、無駄なことで人が死なないよう、これを助ける(save)することとは、どっちも、save である――と。
今一つは、――手を洗わないで炊事をしたり、不潔な炊事具で炊事をする者は、おきて第10にそむく、と、いう考え方がある。おきて第10は、スカウトは純潔である――と。
(英国のおきては、10ヶ条しかない。日本のおきての第11条にあたる。)
このように、スカウティングの、ありとあらゆる作業、技能、訓練は、すべて、ちかい、おきてに結びついている、と言うことを改めて、お考え下さい。
私はスカウトの精神訓練について、と題して、これを書き出したのですが、ここまで書いてみると、この題目がおかしくなりました。というわけは、この中に技能訓練も入っているからです。精神と技能とは一本(一体)であるべきものだからです。
最後にいうべきことは、すべては、ちかいの第1の「神または仏に誠を尽くし」という一点にしぼられる、ということであります。
だから、確乎たる信仰というものが強調され、信仰生活が裏付けにならなければ、スカウティングは有終の美を発しないと思われます。
(昭和33年1月1日 記)
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福岡中地区事務局ニュースVol.3
*今週・来週の行事予定*
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1月18日(月)
1月19日(火)
1月20日(水)CSーRT(19:30~/高宮SH)
県事務長会議(19:00~/県営プール)
1月21日(木)
1月22日(金)BVSーRT(19:30~/高宮SH)
1月23日(土)福岡市BS振興会加盟団団代表者会議
(14:00~/ホテルコムズ4F)
県連盟初集会・懇親会
(15:00~19:00 / ホテルコムズ4F)
地区VS会議(19:00~/まみち会館)
*100kmハイク・プロジェクト
1月24日(日)
1月25日(月)
1月26日(火)
1月27日(水)BSーRT(19:30~/高宮SH)
1月28日(木
1月29日(金)
1月30日(土)
1月31日(日)
*1/25:県下地区コミッショナー会議
*1/30:県連盟スカウト活動委員会
*2/03:継続登録事務受付
*2/07:継続登録審査会
*2/11:15NJ保護者説明会
23.幸福の道について
“私は最も幸福な一生を送った。それで君たちみんなにも、幸福な人生を送ってほしいと私は望む。私は神が幸福に、そして楽しい生涯をもたらすこの愉快な世界を私共にお作り下さったと信ずる。幸福というものは、お金持ちであることからくるものでなく、単に立身出世して成功することから来るのでもなく、自分の思いどおりになることから来るものでもない。幸福に至る一歩は、君達が少年時代、心身ともに健康になることである。そうなれば大人になったとき、生活をたのしむことが出来る。”
以上は1941年1月8日ベーデン・パウエルの死後、文書の中から発見された、チーフスカウトのメッセージであり、スカウト達への遺言の一端である。
私はこの文につけて、三ヶ条の「ちかい」を思い及ぶのである。
私は名誉にかけて次の三条の実行をちかいます。
1.神(仏)と国とに誠をつくしおきてをまもります。
1.いつも他の人々を援けます。
1.体を強くし心をすこやかに徳を養います。
という言葉は、「幸福になる道」であると私は思う。
第一条は真理を仰ぎ、真理に忠実に、マコトをつくす人。
そしてそのために12条のおきてを実行する人は幸福であるということ、詮じつめれば真理を仰ぎ尊んで、それに近づかんとする者は幸福である――と解せられる。真理を馬鹿にし、それを疑い、それに近づくことを怠る者は不幸である――と逆にいうことも出来よう。勝敗を争うことに生命を賭ける馬鹿をよして(今までの日本歴史のような)、真理が国に行われ、真理のために生命をささげ、一生を献ずる人(これがスカウトだ)となれ――ということだ。
第二条は他人の幸福を援ける人は幸福である――と解せられる。他人の幸福を援け得る人という者は、それだけの体力と、心と技を兼備している人でありそういう機会を見だして奉仕する時間的余裕を作ることの出来る生活状態をもつ人であるから幸福である。そんなことの出来ない人は不幸であろう。人の世を少しでも幸福にして上げることが出来るということは幸福であって、不幸ではない。“けれども幸福を得る真の道は、他の人々に幸福をあたえることによってなされる。”とベーデン・パウエルの遺言状にハッキリ記されている。
第三条 何が幸福といったって、身体の健康なことにまさるものはないのだから、少年時代にうんと健康な身体を作っておくこと、同時に心の健康も、またはからねばならぬ。身体だけが健康であっても、心が曲がっていたり、じめじめして暗い心であっては、本当に幸福ではない。その健全な心身の上に、さらに徳を養い育てるならば、一層幸福である。徳というものは後光みたいなもので、光がさしてくる。光がさし皆から尊敬されるように磨いてゆこう。徳とは幸福なりと辞典にも出ている。(人格の完成のこと)このように「ちかい」は「幸福への道」を示していると私は思う。
世の中に不幸になりたいと思う人は恐らくないであろう。みんな幸福になりたいと思っているにちがいない。
けれども幸福とは何か? 幸福になるにはどうすればよいのか? という命題については余り考えても見ない。
お金があったら、邸宅があったら、うまいものがたべられたら、きれいな着物が着られたら、自動車がもてたら、人に勝って思い存分のことが出来たら、そのために立身出世したら幸福になれるなど考えるものだ。何をかいわん、真理を敬いてそれを行い、他人の幸福のために奉仕し、おのれの心身を健全にして至善の行をつむ――これが幸福の道だと、チーフスカウトは教えているのではあるまいか。
チーフスカウトが1941年1月8日、北アフリカのケニヤで84才をもって世をさられた時、本当に幸福の最頂上であったろうと思う。すべてチーフの経験がそれを物語っている。
スカウティングとは“幸福の道であろう”スカウトとは“真理に生き真理を行う人”ということになろう。
(昭和25年10月5日 記)
22.“ちかい”のリファームについて
英国でも米国でもボーイスカウトからシニアースカウトに、または、シニアースカウトからローバースカウトに上進する式に、“ちかい”のリファームを行うことになっている。(ただし米国にはローバースの制はないのだが)日本においてもこの手続きを採用しようという声がある。そこで、このことを考えてみたい。
リファーム(Refirm)とは再認、再確認ということであろう。即ち「ちかいの再確認式」Refirmation を行うわけ。「ちかい」というものは一生に一度だけ行うものである。幾度も行うものではない。一度ちかった後は、唯、唱えるだけ、または、思い起こすだけで、それは「ちかい」ではない。そこでリファームなるものも、その程度であるかも知れない。然し、私はリファームなるものを別の意味に考えようとしている。
私は、リファームを唯、単に復習と考えない。内容的に、より高度の実践への決意と心得たい。もっと具体的にいうなら、初級にありては「ちかい」「おきて」の暗記とその意味の理解が要望される。2級と1級とは別にこれを考査課目としないで、日々のスカウト生活にどの程度あらわされているかを、面接法で評価するものと私は判断する。
けれども、その実践はいわば道徳的の限界にとどまるように思う。然るにSS及びRSに成長すると宗教的の生活プロセスが押し上がってくると私は思う。即ち、SSやRSの日常生活というものは、僧服をつけざる僧とでも申すか、俗人の坊さん足ることをB-Pは期待している。と私には感じられる。
そこで「神(仏)に誠を尽くし」という言葉が、少年時代(BS)よりもハッキリ具体化されなければならない。今までは観念的であったか知らんが、生活的でなければならない。ここにおいて何宗、何教、何派であろうと信仰の生活に入ることが期待されるのではなかろうか? 私は、Refirm という言葉のもつ意味をここまで掘りさげつつある。
「誠を尽くし」という表現は文字の上では入信を規定していない。だからその解釈は自由であろう。だが、私自身のスカウティングは、そして私の自発活動はきびしく私を、信仰生活に指向してやまない。スカウティングという綱と、宗教という綱とが、私にとっては一本にない合わされつつあることを自覚するが故に、私はRefirmなる言葉をそのように考えるのである。
(昭和31年11月5日 記)
21.名誉について
“私は名誉にかけて次の三条の…”の、名誉にかけて――というところを、カブスカウトの月の輪の子供にどう説明したらよいか、その中でも、“名誉”をいかに説明すべきや、という質問をうけた。私は、あなたは講習会で何を教えられましたか、と、逆に質問をした。するとその人は、私はカブの講習会には行きましたが、少年部の講習会には、まだ行けませんので、何とも教えてもらっていないと答えた。その団には少年隊がないので、カブの隊長が少年部のちかいと、おきてを教えねばならないのである。こういう実例が、方々にあるのではなかろうか?
私は数年前、ある地方の少年部指導者実修所の事前課題に“スカウトの名誉”という出題をしたことがある。
その時の答案を見て、実はガッカリしたのである。ある者は、漢和辞典をめくって“名誉”の解説をしたのもある。しかしそれは答えになっていない。
これに対して、私は、次の二つの点を解答の鍵とすべきだと思う。
(1)おきての第1条をよく勉強すること。
(2)“スカウティング・フォア・ボーイズ”邦訳本381頁のB-Pの示唆である。
おきての第1はいうまでもなく、「スカウトは誠実である」この主文の下に次の説明のようなものが載っている。――スカウトの真の資格は信用され得る人間にのみ与えられる。嘘を云わず、ごまかしをせず、信頼されて託された任務を正確に行うことなどは、すべてスカウトの名誉を保つ基礎である。――と。
前記のとおり、この一文は、説明文のように思えるが、昭和22年~23年、これを制定した時の委員会は、このながたらしい文言をも、主文だと説明している。ただ、全主文を暗記することは、むつかしいので、暗記は前の主文だけでよい、というとり決めであつかったことは、その委員会の中心であった故中野忠八先生が昭和23年夏の、戦後最初の宮島実修所において講義をされたので明瞭である。しかるに、その後の講習会などにおいては、この全体が主文であることを、いつの間にか忘れて、説明文であるかのごとき講義をした向きもある。
要するに、たとえこれが、説明文であったにせよ、大多数の指導者もスカウトも、これを読んでいない。読んでいるならば、スカウトは、人から信用されることを名誉とする。信用されるためには、ウソをつかない。すなわち誠実である。だから名誉にかけてということは、正札通り、カケネなしということになろう。
また、これは米国のおきて第1とまったく同じものである。米国のは、ただ“スカウトは、信頼に価する”という表現になっている。日本は、それを、誠実であるといいかえただけの違い。
英国のおきて第1は“スカウトの名誉は信頼されることにある”――云い換えれば、“スカウトは信頼されることを名誉とする”となろう。
誠実――信頼――名誉、という三つの関連によって、明確な答えが出るはず。
B-Pが“スカウティング・フォア・ボーイズ”に書いてある示唆は、非常に暗示的である。要するに船が難破、沈没した時、船長がもし真先にわが身の安全をはかって船客を放っといて逃げるならばそんな信頼の出来ない船に生命をかけ、船賃まで出して乗る馬鹿はない。と云う云い方をしている。
以上で大体いいつくしたと思うが、私はこの一事から見てもスカウト教育上、大変大切な事柄が、案外なおざりにされたり、早や飲み込みされたり、伝達不十分にされているのではあるまいか、という気がする。いいかげんな、お茶をにごしたような教え方を、厳にいましめたいものと思う。
(昭和34年12月1日 記)
20.名誉とは
スカウトのちかいの前文に「私は名誉にかけて次の三条の実行をちかいます」とある。この「名誉にかけて」とは一体どういうことなのか? 指導者がスカウトにこれをどう説明すればよいのか? 私はかってある研修所の事前課題に、この問題を出したことがある。
その答案は、辞書で「めいよ」をひいてみたり、名誉心とか名誉欲とかを一応あたってみたが、どうもうまく考えがつかないという答えが多かった。然るに、おきての第一に、このことは明白に出ているのである。それに気づいて答案を書いた人は僅か3人位しかいなかった。おきてのヨミが足らないナーと私は直感した。
スカウトは誠実である。
スカウトの真の資格は信用され得る人間にのみ与えられる。嘘を云わず、ごまかしをせず、信頼されて託された任務を正確に行うことなどは、すべてスカウトの名誉を保つ基礎である。
以上がおきて第1の全文である。
多くの者は前文だけ暗記して全文を読んでいない。前文を除いた残りの文は本文でなく、説明文或いは副文であるという説がある。私はこの説に反対する。全文が本文である。これは故中野忠八先生(起案者だった)から直接私へのお話に従ったものである。
ただ、初級になる少年には全文の暗記は無理であるから前文だけを誦えることになっているにすぎない。然し少なくとも、15才以上の者は全文の暗記が出来ないこともあるまい。努力次第だ。もし暗記できなくても全文を朗誦するようにしたい。なぜか、というに、15才以上の年長スカウトは、一段とおきての実践に峻烈さを要望されるからである。
「信頼に値する人」とは「責任を果たす人」であり、「誠実な人」である。名誉とはそれに値するものである。
故に、誠実――責任――信頼――名誉、の四つは互いに原因であり結果である。「信頼される」ということが「名誉」になる。「自己を裏切らない」ということが責任の第1段階、すなわち「自分が自分に対する責任」を果たすことである。
「他人への責任」「社会への責任」「国への責任」などは、この自己への責任の土台の上にこそ建てられるべきものである。自分が自分に対する責任を怠っていたのでは、他に対する責任など建てようがない筈であるが、古来日本人は命令者(権威)に対して奴隷であったため、その方への責任が恐ろしくて自分への責任を放棄していた。基本的人権を自分から棄て去っていたのである。そしていかにすれば責任を免がれるか、転嫁し得るか、巧みに逃げるかの術を研究したものである。――現今でも。
こういう権威に対する屈従による自己否定の仕方は、本当の没我でも無我でも捨身でもない。自責の念に堪えんなんていうが、それは弁解にすぎない。自己が自己に対する責任をとことんまで尽くし果たして、それが不幸、果たし切れないときに身をすてるなら筋は通る。即ち、そういう時には他人に対する責任も併せて達成できないから、オメオメ生きていられないということになる。B-Pが「スカウティング・フォア・ボーイズ」の中の、責任という項で、船長は難破の時他の全員を助けるよう努力し、最後まで船に残って船と運命を共にすることを名誉だと教えられている。と記している。
B-Pはそれ以上の説明をわざとしていないが、かように自分の死をかけている船長であるから、人々は安心して乗船するのである。もし、まっさきに脱船するような船長だったら誰がそんな船に乗るもんか、と、いうことになる。つまり彼は乗客から絶対に信頼されている。それが船長たる者の名誉なのである。
不幸にして自己に、そして他の人々へ、国へ、神へ、最善を尽くしてもなお及ばなかったとき、ネルソンは“I have done my duty”と叫んで斃れた。duty という言葉に相当する日本語がないのは残念である。
「名誉にかけて」という言葉は、英語では「死をかけて」というほど絶対な厳しいものだとB-PはS.F.Bに書いている。
私は、これを「自発活動の極致」であると思うようになった。“かおりか光か、ああ、名誉!”薫りと光は、自発する。
(昭和31年4月4日 記)
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福岡中地区事務局ニュースVol.2
*今週・来週の行事予定*
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1月12日(火)
1月13日(水)
1月14日(木)地区VS会議(19:30~/高宮SH)
*100kmサイクリング・プロジェクト
1月15日(金)
1月16日(土)
1月17日(日)
1月18日(月)
1月19日(火)
1月20日(水)CSーRT(19:30~/高宮SH)
県事務長会議(19:00~/県営プール)
1月21日(木)
1月22日(金)
1月23日(土)福岡市BS振興会加盟団団代表者会議
(14:00~/ホテルコムズ4F)
県連盟初集会・懇親会
(15:00~19:00 / ホテルコムズ4F)
地区VS会議(19:00~/まみち会館)
*100kmハイク・プロジェクト
1月24日(日)
*1/25:県下地区コミッショナー会議
*1/30:県連盟スカウト活動委員会
*2/03:継続登録事務受付
*2/07:継続登録審査会
*2/11:15NJ保護者説明会
19.私見:ちかいの組立(2)
ちかいの三つを、概観すると――。
第1は、神(仏)国、…のそれぞれに「誠を尽くし」、おきてを守る。というのである。この神、仏、国、おきては、どれも抽象的存在である。俗にいえば眼に見えないものへの忠誠である。且つ、人間以上の高いところに在るものへの忠誠である。
最小限、これらの存在を、否定しないことをあらわす。だから神仏を否定した無神論者や、国を否定した思想の持ち主は、スカウトとして失格者である。心のおきどころの確かでない者、心の動向が無秩序、または有害であるような精神異常者、即ち、おきての無い者もまた失格者である。尊ぶべきものを尊ばないような思いあがった無法者ではお話にならん、ということになる。おきて第12に、これは伸びてくる。
第2の「いつも他の人々を援けます。」というのは、自分よりも先に、他の人々のことを考えなさい、という意味がその本命であって「援け」る――という言葉は、まだ、具体的な行動をさしていない、と私は解する。
前述のとおり「ちかい」は、発想であり決意であって、行動の、一つの手前の段階、即ち「意思」律をあらわすものと、私は思う。「行動」はむしろ「おきて」のがわで律するものと思う。従って、このいつも他の人々を援けるという意思が、おきて第3の「スカウトは人の力になる」という「行動」を起こすことになると思う。ある一部の者は、ちかい第2と「おきて」第3とは、同じことを重複して云うていると、非難するが、私は、そうは思わない。
B-Pが「スカウティング・フォア・ボーイズ」のなかで、「この教育は、利己主義を利他主義に置き換えるものである。」という意味のことを説いている。(邦訳本P48、P478、他数カ所。)そのことを、この第2においてあらわしているものと、私は理解している。従って、自分個人のことは、一番あとまわしになる。即ち、ちかいの第3にはじめて、「自己」があらわれる。
第3に「体を強くし、心をすこやかに、徳を養います。」と。
体を強くし――と、一口にいうけれども、その意味は実に広大である。私は、近年病気をして、色々と反省させられた。60才をすぎてから起きる疾病の遠因は、殆ど全部が、少年時代に、無意識や不注意、乃至は無知、または強がり、No care に原因していることを知った。このことは後日、詳述したいと思っている。
心をすこやかに――この言葉も中々、やさしいようで、むつかしい。現在の私としては、唯、漠然と真、善、美への追及とだけ受け取っているにすぎない。「歩く時には、泥んこの水たまりを見ないで、かわいているところを見て歩きなさい。」と、言ったローランド・フィリップスの説話(「班長への手紙」、邦訳本「パトロールシステム」「班長への手紙」合本のP134参照)は、誠に示唆深いものがある。結局、「おきて」第10につながる決意であり、意思である。
徳を養います。――については、今度発刊された雑誌「スカウト」4月号(P40~41)に私が書いたように、他人の幸福をはかることを意味する。それは、B-Pの80才の時のメッセージと、最後のメッセージから解明できる。(「ボーイスカウトとはどんなものか」P32、P34参照)
第3の、この自己修練のちかいが、単に、自己中心的に、自分さえよければ、で、ないことは、この末文の「徳を養います」の一語によって、いみじくも、道破されている。この点に、留意したい。
さて、それでは、徳を養うためには、換言すれば、自己をささげるには、どうしても「小我」をすてて、「大我」に活きなければならない。このためには、ゲーテのいわゆる「至高なるもの」への、敬仰、思慕、追従が必要である。ここにおいて、私は「ちかい」第1に、もどって、仏(私の場合)に国に、誠を尽くすのではなかったら、私は、小我にとらわれて一生を曇らせるほかない。
このように「ちかい」には第1もなく、第2、第3というような順序もないのが本当である。円周みたいに始めも終わりもない。(この稿文には、仮に、第1、第2、第3としたが――)だから規約ではどれも皆一としてある。
一番むつかしい言葉は、「誠意を尽くし」である。これについては、以前、叙説したと記憶するが、これは“To do my Duty”にあたる日本語である。デューティ(Duty)は、邦語の「つとめ」「義務」に近いのだが、権利に対する義務では決してない。日本人の普通いう義務とは、権利あっての義務、義務あっての権利、即ち相対的の義務をいう癖が多い。この方はObligation(義務)であって、Duty ではあるまい。Duty は、絶対的なもので、それの対象は無い。そうして自発的である。なんらの交換条件や、反対給付を予想しない義務(つとめ)だ。
命令もされず、制圧もされず、全くの基本的人権の自発活動からくる奉仕である。これを「誠を尽くし」という表現にしたことは、誰の提唱なのか知らないが、中々味があると私は思う。(中野忠八先生のような気がする)
さて、この「誠を尽くし」の程度、どの程度の誠なのか、これはスカウト各人の年令、知能、力量、識量、境遇によってその段階は千差万別であるべきで、それ自体に、進歩の軌跡をもつものであるから、一定の基準をもって律するのは、まちがいである。スカウティングの妙味を内包している点からみても、実に味がある言葉だと思う。
最後に――。このちかいは、米国のOath または、Promise の、翻訳である――と言って非難する者がある。ある消息通の言によると、終戦直後、進駐軍当局は、日本BSの再建に関して、多分に疑念を抱いて、軍国主義の再建を警戒し、中々許可しなかった。そこで、米国のと同じ、ちかい、おきてにしてその疑念を解くため、且つは再建を急ぐ必要上、翻訳を提出したのだと言う。よって独立達成後は、これをやめて新規に立案すべし、という意見もあった。
しかし規約の改正に際して、このままで別に弊害はないということと、ちかいやおきてのような大切なものを、軽々しくまたは感情的に改正することは適切でない、ということでそのままとされた。
けれども、「徳を養います」という部分は決して翻訳でない。「徳」という概念は東洋的なもので、いわば日本独自の考え方である。私は「徳を養います」という言葉だけをもってしても、日本式スカウティング(もしそういう言い方が許されるならば)を端的にいいあらわしていると、誠にうれしく思うのである。
(昭和35年4月11日 記)
18.私見:ちかいの組立(1)
前稿で、ちかいは、実は、ちかひであることを説明した。ひは「たましひ」のひであり、漢字化すれば「霊」であることをのべておいた。さて、なぜ「誓」と書かないのか? これについて私の知っていることを付記しよう。
戦前の日本連盟が、「誓」とか「掟」とかという表現をことさらしないで、「ちかひ」「おきて」と書いたのは、理由があった。仄聞するところによると、当時理事長だった故二荒芳徳先生(前総コミッショナー)が、倭訓を強調され、誓とか掟は、どうも他律的にひびいて面白くない。たとえば、おきてとは、心のおきどころの「おき」と、方向を示す「て」という言葉の混成語である。それを「掟」と書いたのでは、そういう意味が出て来ない――という説明であった。「この土手にのぼるべからず」という立札にある「掟」みたいで――と大笑いになったそうである。そこで同じような理由で「誓」という字は敬遠されて「ちかひ」が用いられたのであった。私はこれは誠に卓見だと思う。第一、感じがよい。漢字でない方がカンジがよい――。
さて「ちかい」は、前言葉があってから、三ヶ条が頭をならべて表現されている。前言葉にある「私は」という言葉が非常に大切で一人称単数をつかう。普通の会則とか、宣言には「われわれ」とか「我等」とか「吾人は」とか複数を用いるのが日本人の癖である。悪くいえば、多数をたのむいい方が好きな国民である。
ところが前言葉では「私は」である点に留意されたい。これは基本的人権に基づいた発言をあらわす。ひとは、どうあろうとも「私は」である。その上、「自発活動」そのものである。もう、これだけで、スカウティングの在り方が明示され尽くしていると私は思う。
その次に問題になる言葉は「名誉にかけて」である。この「名誉」とは何か? については、前に述べておいたから詳述をさけたい。要するに、ウソやイツワリでなく、本心からちかう意味の最大級の表現である。昔流に云えば「刀にかけて」であり、「天地神明に誓って」となろう。
その次に「実行を誓います」の言葉。これでわかるように、「ちかい」は、まだ、「実行」そのものを指していない。「実行」そのものの部は、「おきて」の方にある。この段階はまだ「発想」の段階であり「決意」の段階だと私は解する。「意思」の設定なのだ。これについては、あとで、「ちかい」の第2と「おきて」の第3との相似点と同時に、異同点の説明の時、詳述したい。
それよりも、私は、最後の「誓います」の「ます」に注意を向けたい。「誓いましょう」でも「誓いました」でもなく、明らかに「誓います」という「現在形」である。そんなことアタリマエダ――と、一笑に付する読者があるだろうと思うが、私は、一笑どころか真剣ですぞ! 即ち、これは、常に現在形であり、永遠に現在形である。瞬間々々、Every Moment に「誓います」なのである。だから、いつも、いつもスカウトであり、今の今もスカウトであり、Always a Scout であるわけです。
(昭和35年3月17日 記)
17.私見:ちかいの意義
英国ではプロミス、米国ではプロミスまたはオース(Oath)という。プロミスは「やくそく」であり、オースは「ちかい」と訳すべきだろう。
日本では「ちかい」と名づける。曲解を試みるならば、「やくそく」では弱くて、これを破るおそれがあるから「ちかい」という少々固い名称にしたのかもしれない。カブの方は逆に「ちかい」では固苦しいというので、「やくそく」の方をとったというようにきいている。
「ちかい」は正しくは「ちかひ」と書くべきだろう。「ひ」とは「霊」(たましい――本当は、たましひ――)を意味する日本の古語である。「たましひ」「霊」にちかうので「ちかひ」という。これは「日本書紀」あたりによく出てくる「うけひ」という古語に関係がある言葉で、共に「ひ」に向かってベストをつくす人間の決意をいみしている。
こんなことをいうと、一層固苦しくなるかもしれないが、日本人の心理には「天地神明に誓う」とか、「天神地祇を祀って誓う」とか唱えて「神」「仏」に所信をちかうことが昔からある。そこでスカウトのちかいは、一体、誰に対してちかうのか? という大きな疑問にぶつかることになる。
昔の武士は神仏に誓った。それは人間同士は所詮、順逆常ならず、信用できない、ということ、また人間には栄枯、盛衰、生老病死があってたよりないので「絶対」のもの、即ち「神仏」や「天地神明」にちかったと考えられる。
明治以来の兵隊は、「大元帥」即ち軍服を着た「天皇」にちかった。それは、軍人としての天皇は兵馬の権、即ち「統帥権」をもっており、皇軍の首長であったからである。「軍旗」は大元帥の身代わりのハタだとされた。
スカウトは、武士や兵隊とはちがった人間である。だから神仏にちかったり、隊旗(これは軍旗とは全然性格がちがう)に誓ったりするのは、第一義的でない。
スカウトは、それなら「何に」「誰に」ちかうべきなのか?
私は、何よりもまず「自分」にちかうべきだと思う。「ひと」をあざむくことはできても、自分をあざむくことはできない。もし、平気で自分をいつわるような、そんな芸当が出来るならば、私は彼を「スカウト」と思いたくない。理由は? 簡単。彼は「名誉」をもたないからである。
「名誉」についての私見は、前に述べた。
「自分に敗ける」ことはあっても「自分をあざむく」ことがあってはならぬ。(“自分に克つ”の稿参照)平気で自分をあざむく者は、ヒトも平気であざむく。そうなると誰も、彼を信頼しない。だからスカウトではもうなくなっている。
自分が自分にちかう――これにまさる自発活動があるだろうか!
「この三ヶ条の「ちかい」は、ベーデン・パウエルが作った――いや、これは日本連盟がきめた――そういうふうに、ちかわないとスカウトになれないから、ぼくは、ちかうのです…。」
私は、こういう考え方をケイベツしたい。この考え方には、一つも「自分が主人公になった態度」がない。自発的なものがない。ドレイ的であり、被害者的であり、盲従的であり、封建的であるから――。
自分から進んで、B-Pに共鳴しスカウト仲間にとびこんだ、という精神がひとつもない。そんな他律的な者にスカウティングは生まれて来ない。
これはスカウト仲間への「仲間入り」の約束の言葉でもあるから、第二義的には――スカウト仲間に対してちかうのである。または隊長だとか、隊旗に対してちかう――ということも、まちがいではないが、第一義的には、「自分が自分にちかう」。昨日まではスカウトでなかった自分が、本日、只今、この言葉とともにスカウトになるのだ――というモチベーション(動機づけ)を意味する。仏教で、俗人から僧になるときに「得度」(とくど)の式をするが、私はそれに似たものを感じる。またはキリスト教の洗礼――いいかえれば、一生の一転機である。
カブの場合は、仲間にやくそくを結び、その制約が自分にもどってきて、自分を律する、という反射的効果をとり、スカウトの場合は、自分の在り方をさきにして自ら律し、そのはたらき(機能)を仲間(ヒト)におよぼすという、積極性をとる――年令、知能、体力、精神力の発達にマッチしたやり方になっていると私は考える。
(昭和35年2月6日 記)
16.継続と成功
私の今いる町の隊も今秋4周年を迎える。今年、8周年になったという隊からは案内状を頂いた。或隊は5年、というように、いわゆる「星霜祭」が行われることは誠に喜ばしい。それは、継続し得た喜びである。生命体としての喜びである。そこで、私は、継続ということをテーマとして考えてみた。
英語のSuccess という言葉には「成功」という訳があるが、Succession という言葉では「継続」という訳がある。それで私は以前から「継続は成功の基」と思い、「成功は継続から」とのみこんでいた。どうもこの二語は一つのものからきているように思われてしかたがない。
今年5月、私は、B-P著「Wolf cub's Handbook」の第3部「ウルフ・カブ訓練の目的と方法」という部分を、読みなおし、自分の理解をメモしてみるという勉強を試みた。そのとき、カビングにあっては特に「継続する」或いは「続けさせる」ことが訓育の中軸であると、B-Pが指摘していることに私は注目した。
B-Pはいう。カブ訓育は、さしあたり人格と健康の2点から公民として能率的な次代人を作ることを目的とする。この年令の者は正しい指導を受け入れ得る時代であるから基礎を打ち込むべき時代である。しかし、カビングは書物で教えるのでなく、実行を通して導くという方法をとるが故に、これを達成させるには長期の継続(または持続)を必要とする。良い習慣をつけることは人格をも健康をもよくする。例えば、毎朝毎晩、歯を磨く。これが習慣化し、生活化するには長い期間の持続を待って始めてでき上がる。けれども、この持続というものは、カブにとっては、まだ、自発活動に発していない、そうでなくても、カブ年令の者はあきっぽく、すぐ忘れる。それを何とかして、自発活動ができる年令の時まで持続させるということに、カブ訓育の責任がある。その責任は、躾け方の如何によるほかない。
それには、
(a)興味を失わさない工夫
(b)励ます工夫
(c)進歩したことを自認させる工夫
(d)まだあとがあるぞと奮発させる工夫
(e)自分に或るすぐれた特技のあることを自識させる工夫
――が必要なこと。これが結局、組(班)制度、進級、技能制度となると思う。そして、CS、BS、SS、RSへと上進する一連のプログラムとなる次第。
以上は、私の注釈を多分につけ加えた一文であるが、さて、かように考えてみると、年功章を沢山つけているスカウトという者は、大いに誉めてあげてよいと思う。これに反して、休隊、離隊した者は、継続の失格者であって不成功者である。その原因は、本人の側に勿論大部分あるとは思うが、指導者の側にも相当あるのではあるまいか? 即ち、上述の工夫が足りなかったり、私の持論である「個人プログラム」を無視して、班や隊のプログラムで押しまくったため、「ついて行けない」結果におとしいれたのかも知れない。進学の問題、家庭の事情など、多くの原因はあろうけれども、その大部分は個別的扱い方によって九死に一生を得られる指導の仕方があるのではあるまいか?
かように考えてゆくとき、継続ということは大きな問題で、それ自らがスカウティングだといえる。
Once a scout always a scout.という名言は、継続ということを内包している。always という一語が意味深長である。
さて、いかに隊が8周年または5周年を迎えたにしろ、隊の年数と同数の年功章をつけているスカウトの数が、何人いるのか? ということが次の問題になってくる。いわゆる歩どまりの問題である。第2には、隊員の進歩状況である。隊の年令と、進級(進歩)との歩合表を私は持ち合わせていないのでどんな比率になっているのか、よく、わからない。要するに、隊の年令のみを祝い喜ぶだけで、隊員の継続、進歩の方を第2に考える。という考え方には賛成できない。ここに仮に創立10周年の隊があったとする。隊員数は僅か8人しかなく、2級スカウトが1人、あと皆初級というが如くであるならば、祝辞を呈するにちゅうちょせざるを得ない。結局継続ということは根本的に重要であるのだが、継続の内容如何、主体如何、ということに問題がある。
運営面では10年継続したが教育面では、それにマッチした継続がないのであれば、甚だしきアンバランスで「一体あなたの隊は、何のために存在しているのですか?」と質問したくなる。昔、少年団といっていた頃には、団旗だけ残っていて、指導者も隊員も、跡かたなく消失したのが相当あった。一夜にできた銀世界は翌日とけてぬかるむ。
続けることにスカウティングはある。続けないところに成功はない。まぐれあたりに、場あたりに、一見、成功したかにみえるものがあるけれども、それは本当の成功ではない。継続しつつあるその瞬間に成功は組み立てられつつある。と思うと、あせったり、ごまかしたりする必要は毛頭ないようである。
(昭和30年10月29日 記)
15.自発活動(その2) 日本人に欠けているもの
朝から晩まで、何事も自発活動、自発活動――と思いながら一日中何かをやっていると、とても愉快になる。
生活の自主性がハッキリ出てくる。多分これは健康にも良いだろうと思う。こういうあいだに、スカウティングが積み重ねられてゆきつつあるように思われる。なんといっても自分のエンヂンがかかっているのだもの。
さりとて、自発活動なら、どんなことをしてもよい――とはいえない。本能のままに、コントロールなしに、衝動にかられて狂犬の如く盲動してもよいのだ、とはいえない。
他人に迷惑や損害を与えても一向にかまわん、という一方的な自発活動では目茶々々である。スカウティングは自発活動をモトとするが故に、その自発活動の在り方、と、いうことが極めて大切である。その在り方を自得するために、観察力、推理力、の錬磨をB-Pは、まっ先にあげている。これがスカウティングの基本になっている。いやいや、それよりもっと基本のもの――三つの「ちかい」と十二の「おきて」――。これぞ自発活動の在り方を示した道標である。我々の自発活動は、この基本線に沿うて発動されねばならぬ。
次に我々の自発活動は、何に向かって投入されるべきか? 私利、私欲のためや売名のためでないのは云うまでもないのであるが、これをもっとハッキリさせたい。我々の(私の)自発活動は「組織体」に投入されねばならん、と私は思う。いいかえれば、せっかく、投入した自分の自発活動が、「組織体」に何程かの貢献をプラスするのでなかったら、その労作はもったいないことだが点にならなくて「残塁」に終わってしまう。全く惜しい。
そんな下手なゲームはやりたくない。「組織体」に投入するためには、自分の「分担」または「役割」がハッキリしていなければならない。自分ご自身においては勿論のこと組織体のメンバー全員にもハッキリしていなければならない。これは必須条件である。同様に、自分以外のメンバーの、それぞれの分担、役割についても私は充分よく知っていなければならない。そうでないと協働(CO-operation)がとれないのみか、自発活動の鉢合わせや、対立や、行きすぎや、縄張り争いや、功名争いが起きる。その結果、組織体は崩壊する。
現在、日本に、こういう下手くそなゲームが毎日くりかえされている。政争、組合争、団体の内紛、等々。それは、当世の成年層の人々が少年時代に「組織体」訓育を経験しなかったセイである。班制教育というものは、この訓育の実践と練習のために存在するのだ。組織共同体に対する各自の自発活動の投入と、「分担」「役割」を通じての協働を、少年時代から身につけさせるためB-Pが考えた方策である。
それは成人の暁、能率高い公民になるべき狙いに叶う方策なのである。我々は、日本人一般が、一番欠けている組織体生活というものを、根本から築き上げて、次代の国民を仕立てるという大仕事に従事しているのである。而してその試練の第一歩は「班制」いかんにかかっている。
もっと、もっと深く、組織体というものを考えよう。君の班は果たして組織体になっているかどうか? 君の隊は? 君の地区は? 県連は? 日本のScouting は往々にして「組織体」でなく「個人商店」になりがちである。
これは、株式組織に切り替える以前の創業時代そのままの状態にとどまった形といえる。「個人商店」のままでは発展のしようがない。たとえ強力無比な一個人が、一生をかけて経営したところで、個人の力だけではたかが知れている。それは他の人の自発活動を育ててやらない、という大きな教育上の欠点を内包している。故に二重三重のマイナスとなる。これは経営面だけにとどまらない。
プログラムというものも、組織体になりきった暁でないと本当のものは生まれない。個人商店のプログラムでは、思いつきや、ハッタリや、宣伝の域を脱しきれまい。個人商店は、人間を利用価値の面だけで扱う。利用価値のあるあいだはコキ使い、利用価値がなくなればヘイリ(弊履)の如く打ち棄ててしまう。人を育てるとか、長所を伸ばすとかいうような教育活動はソロバンにないのである。だから、本当のプログラムはないのだ。あるのは行事(Event)ばかり。それも、いかにして自己の名声を持続するか、を重点とした独善的企画にすぎない。
次代の日本人は、もはや、そういう旧態依然たる企画と、ボスの手を離れた仕組みの中で育てられなければならない。そうでないと、子供たちの折角もり上がった自発活動の伸びる道がない。彼等は、失望のあまり退隊してしまう。星の夜、胸一ぱいの希望と夢を抱いて、三つのちかいをした、あの、神秘な幽玄な、入隊式の日のことは、裏切られたことになる。一体全体、どこに病因があるのか?
下手くそなゲームぶり! 残塁につぐ残塁。すべては在り方の研究不足。
(昭和30年7月30日 記)
14.自発活動(その1) 人に対する忠節をつくすのか?
歎異抄(たんにしょう)という親鸞(しんらん)上人(しょうにん)の書きのこされた本の中に「親鸞は弟子を一人も持たない」という言葉がある。
これは師弟だとか、教え子だとかいう特殊関係がそこに生ずるとき、法(この場合は仏法)に従わないで「人」(仏語ではニンと読む)に従うようになる。これは恐ろしいことで、師の方は人情にひかれて妄執にとらわれ、弟子の方は法を忘れて人(ニン)にすがりつき、結局師弟もろとも溺死するということを戒められたサトリであると承っている。
だが、いま一つには、弟子が正しき法に従ってサトリををひらくということは、弟子自身の自発活動に基づくものであり、その自発活動を師匠という圧力でゆがめないよう、その者の本来のペースのままで育ててやりたいという深い愛情に基づくものだろうと私は考える。
弟子が師にすがりつこうとするのを、払いのけるその心は無情か、非情か、一応不人情のようであるが、そうしなければ菩薩道の修行がやってゆけない切々たる苦衷を「弟子一人も持たない」といいきったものと味われる。親鸞は、自発活動を、かくの如く厳粛に扱っていたと思う。
児童憲章(そんなものがあったことを忘れている人も多かろうが)の中に「児童は総て人として尊ばれねばならない」と規定されている。一体、児童の何を尊ぶべきなのか?
「人格をだ!!」と、誰かが叫ぶ。「自発活動をだ!!」と、私は叫びたい。結局同じことになりはするが、あとのいい方の方が、より具体的だと思っている。子供を私有物だと考える母、これは母性愛のゆきすぎだと批判される。子供は国有物である、と、何年か前の全体主義的国家主義者は叫んだ。児童憲章は、それを拭い去ろうとしているのだが、さて現実はどうであろう?
スカウティングの一つの要素に「スカウティングに対しての忠節心」或いは、「道に対する忠節心」「この運動への忠節心」ということが要望されている。世界大戦後のスカウト国際会議のテーマにさえなった。この言葉の意味、その解釈ならびに忠誠心のあり方については決して一様でなく、色々の考え方があると私は思う。
しかし、何れにせよ、道とか運動とか、スカウティングへの忠誠心であって、「人」に対する忠誠心とは異なる点を注目したい。「Aさんが理事長をしているあいだは、僕はひっこんで第一線に出ませんよ。」とか「あんな奴がコミッショナーだなんて笑わせる、うちの隊は、自分とこだけしっかりやっとればそれでええ。当分地区の集会には欠席ですわ。」と、いうような声をよく耳にする。これは皆、「人」に対する忠誠をやっているわけで余りにも、「人」にこだわりすぎている。日本のスカウティング、40年の歴史をもちながら伸び育たない原因の一つである。「法」(または「道」)と、「人」と、そのどちらに君は忠誠を尽くそうとしているのか?
話を元に戻す。しかし、弟子のがわからは、どこまでも師と仰ぐべきである。「たとい師の法然上人にだまされて一生を台なしにしても、私は一つも後悔しない」と、云った親鸞上人のあの信じきった師への尊敬は絶対である。であるからこそ、師になってからの親鸞には非情にならざるを得ないことになる。「人」への忠誠心と「法」或いは「道」、我々の場合は「スカウティング」への忠誠心との岐れ目である。君は、どの道を選ぶか?
君の自発的活動にまかせるほかはない。それが、君のスカウティングなのだ!!
(昭和30年6月18日 記)
13.新しい時代に生きるスカウト教育
今日の新教育というものは、アメリカの碵学ジョンデューイの学説を基盤としていることは誰しも知るところである。70才を超えるこの考碵学の教育説は今は全世界のデモクラチック諸国の教育に対する光である。
アメリカのスカウト教育がその影響を蒙っているらしいことは想像される。また逆にスカウト教育がデューイに影響した点もあるのではあるまいか? この間の消息については残念ながら何一つ知る手がかりがない。
イギリスに生まれたスカウト教育法は、世界各国に伝播して、それぞれの国風と行き方に取り入れられた。
その例としてドイツやイタリーの改ざんは周知のごとく失敗した。ソビエート化したピオニールの現状はわからない。唯アメリカでのスカウティングは最近20年間に非常な研究と改良を見たのである。それはアメリカの建国以来のパイオニア精神と合致し、その公民教育と合致し、そしてデューイの学説と一致したからであるらしい。
これらに関しては私は今後の研究にまつ代はない。今日の処、単なる想見の域を出ない。
私はデューイの教育学説について有名なニューヨーク大学のホーン教授(Herman Harrell Horne)が新教育の特長として25項目をあげている。それを一見しようと思う。
次の項目の番号に私が〇印をつけたものは、スカウト教育と共通したものであることを示す。
1.○児童を中心とすること
2. ○児童生徒の教育参加
3.○ 個人尊重
4. ○プロジェクトメソッドの採用
5. ○討論法、協議法の採用
6. ○為すことによって学ばせる
7. ○「作業―学習―遊戯」のプラン
8. 形式的学級教授の縮滅乃至廃止
9. ○内的動機に基礎を置く
10. ○支配しない(教師は案内し指導するにとどまる)
11.学校の生活化
12.校舎の改革(学級教授が廃されるので校舎の形態が変わる。図書館、実験室、作業工場の結合が校舎である)
13.学校を社会生活の中心とする
14.○児童生徒の興味を尊重する
15.○論理方法よりは心理的方法
16.○自由訓練(強制を避ける)
17.○課外活動(エキストラカリキュラムを本体化する)
18.教科課程観の改修
19.知能検査の採用
20.学力測定の採用
21.下級中学制の採用
22.○職業による教育の重視(職業のための教育ではない)
23.○社会心の涵養
24.○国際心の涵養
25.○経験の改造を教育目標とする
以上の通り17/25はスカウト教育が既にこれを実施している。私は最後の“25経験の改造を教育目標とする”という意味についてその説明を引用しよう。
――新教育では教育を極めて広く考える。教育は生活そのもののごとく広く大きいのである。教育されるものも個人にとどまらない。集団や社会の生長が考慮される。教育とは単なる心の訓練でなく、智識の伝達でなく、過去の繰り返しでもなく、将来への単純なる準備でもなく、性格破産者の矯正を意味するものでもない。個人的なまた社会的な経験を改造し再組織し変形するにある。というのが新教育における教育の考え方である――。とこれ即ち、デューイの経験改造説から来ている。
以上のとおりスカウト教育は、正に新教育の要素を沢山備えている。そこで学校教育が新教育になったとき、それはスカウトとダブルことになるから、その時もはやスカウト教育は不要になるのではないか? と速断する先生方が出るかも知れない。だが、私はやはり二本建ては必ず存在しなければならぬと考える。それどころか、学校教育が、新教育の途を前導すればするほどスカウト教育は必要度を増すのだと思う。それは青少年の人格陶治(教育)において、まさになさねばならぬ領域と量の拡大は、到底学校教育だけでは時間的空間的に賄い切れぬからである。
かくて“Once a Scout always a Scout”という言葉は真理であって、スカウティングそのものも未来永劫不減である。
(昭和25年2月25日 記)
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福岡中地区事務局ニュースVol.1
*今週・来週の行事予定*
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1月04日(月)地区内コミッショナー会議(19:30〜/高宮SH)
1月05日(火)
1月06日(水)
1月07日(木)
1月08日(金)VS部門ラウンドテーブル(19:30~/高宮SH)
1月09日(土)
1月10日(日)継続登録説明会(17:00~18:00/高宮SH)
1月11日(月)
1月12日(火)
1月13日(水)
1月14日(木)
1月15日(金)
1月16日(土)
1月17日(日)
*1/23:福岡市BS振興会加盟団団代表者会議
*1/23:県連盟初集会・懇親会
*1/25:県下地区コミッショナー会議
*1/30:県連盟スカウト活動委員会
*2/03:継続登録事務受付
*2/07:継続登録審査会
*2/11:15NJ保護者説明会
「設営は撤営までが設営だ。しかし、撒営は設営から始まっている」
「設営は撤営までが設営」とは、キャンプの終わりまで、快適に過ごせるように工夫するととを忘れないというとです。そして撤営は設営から始まっている」とは、きみがキャンプに感謝以外は伺も残さすに帰れるように、はじめから考えながら行動しなさいということです。
(スカウトハンドブックp59)
『地球にやさしい野外活動をするために』
1.事前に計画と準備をします
・目的地についてよく調べ、事前の準備をする。
・参加者の技能に見合った計画を立てる。
・目的地までの移動時間は余裕をもつ。
・小さな火、少ないゴミですむように献立と調理器具を工夫する。
・自然への影曹を考え、少人数のグループで訪れる。(まさに班の人数)
(スカウトハンドブックp58)
2.地表や植生に悪い影響を与えないよう努めます
・ハイキングではコースをむやみにはずれて、地表を荒らさない。
・キャンプでは、そこに住む生物、地形に配慮する。
・小川や湖から50m以上離れてキャンプをするなど、水源地を汚さないようにする。
・よいキャンプサイトは作るものではなく、見つけるものだということを知ると
ともに、キャンプサイトにむやみに手を加えない。
3. 適切なゴミ・汚水処理をします
・自分たちの持ちこんだものは自分たちで持ち帰る。
・キャンプ場では指示されたゴミ処理を行う。
・トイレはキャンプサイトや水源地から50m 以上離し、使用後は土をかける。
・洗剤の使用は極力ひかえ、使用する場合は無添加石鹸を使用する。そのために
も献立を工夫する。
・汚水はゴミをすくい、指定された場所に捨てるか、広範囲にまく。
・帰る前にもう一度、キャンプサイトを確認する。
4. 自然を大切にし、来た時の状態にします
・きみが見たすばらしい自然を大切にし、そのままにする。
・キャンプサイトを去るときには、来た時と同じ状態に戻す。
5. 火の取扱いには、細心の注意をはらいます
・火による自然への影響を最小限にとどめるようにする。
・たき火のマキは、燃えかすを残さないように、必要な量を見極めて燃やす。
・完全に消火したのを確認してから去る。
6. 野生生物の命を大切にします
・野生生物を驚かさない。
・野生動物には、むやみに近づかない。距離を置いて観察する。
・工サを与えない。また、食料の管理をしっかりする。
7. 他の人々に配慮します
・他のハイカー、キャンパーの邪魔をしない。
・みんなが静かに自然を楽しめるように配慮をする。
●残すのは感謝のみ。リーブ・ノー・トレース(Leave No Trace)
スカウテイングは世界中で行われています。そして世界の仲間たちもそれぞれの環境にあったスローガンなどを決めています。また、キャンプやハイキング、野外活動を楽しんでいるスカウト以外のたくさんの団体も言葉や表現は違っても、同じような「スローガン」を持っています。
オーストラリアのスカウトたちは「スカウト環境保護憲章」 を決めています。アメリカのスカウトたちは「アウトドア・コード(野外生活のおきて)」を持つとともに、他の野外活動をしている人たちと同じ「リーブ・ノー・トレース」という指針で野外活動を楽しんでいます。
(スカウトハンドブックp57)
リーブ・ノー・トレース
この言葉は、「跡をなにも残さない」 という意味です。ベデンーパウエルが残した「何も残さない。感謝を除いては」と同じ内容です。野外活動では「とってよいのは写真だけ、残してよいのは足跡だけ」などといわれてきましたが、残してよい足跡も同じところを何人もが歩けば道になってしまいます。
(スカウトハンドブックp57)
●地球にやさしい野外活動
地球にやさしい野外活動は、きみがいくつかのととを心がければ実践することができます。そのいくつかとは、スカウテイングを始めたベーデンーパウエルの言葉にヒントがあります。それは「何も残さない。感謝を除いては」という言葉です。とれはスカウティングという活動が、自然とともにあるととを意味しています。
(スカウトハンドブックp57)
*スカウト環境行動スローガン誕生まで
第11回日本ジャンボリー(1994年)開催中に行われた第10回全国スカウトフォーラムでは、「『自然と仲良く』を合言葉に、地域の人々とともに身近なところから環境に対する意識改革を始めよう!」という呼びかけが採択されました。
そして、これをすぐに実践できるように発展させて、日本のボーイスカウトが環境に対する取り組みの基本姿勢を「スカウト環境行動スローガン」として宣言することとしました。
私たちはこのスローガンを合言葉に、地球環境の保護のためにいろいろな活動を積極的に行っていきます。
(このスローガンは平成7年3月中央審議会で承認されました)
スカウ卜環境行動スローガン
わたくしたちスカウトは、自然の恵みに感謝し、地球市民として、自然の美しさがいつまでも保たれることを願い、地球環境の保護のために積極的に行動します。
1.縁の大地を守り育てます。
1.かけがえのない水と空気を汚さないようにします。
1.すべての動植物の命を大切にします。
1.かぎりある資源の節約とリサイクルにつとめます。
1.地球にやさしい野外活動を実践します。
(スカウトハンドブックp56)
残すのは感謝のみ
●自然とともにこのかけがえのない地球は、決して現在の私たちだけのものではありません。地球上に住むあらゆる生物は、過去から現在、そして未来へと、次の世代に「命」をバトンタッチする大切な使命をもっています。そのためにはすばらしい自然をもつ、健康な地球が未来へと続いてゆくことが大切です。
「スカウト環境行動スローガン」は、日本のスカウトたちが環境に対して取り組む気持を表したものです。スカウテイングは、きみたちがスカウトとして活動することで、ただキャンプやハイキングを楽しむだけではなく、自然との付き合い方を知る方法でもあります。
(スカウトハンドブックp56)
12.何を備えるか
“そなえよつねに”という言葉は一体何に備えるのだろうか? 何を一体備えるのだろうか? こういう自問を発してみた。普通、この標語は、いつなん時、いかなる場所で、如何なる事が起こった場合でも、善処、処理出来るということ、昔の言葉でいうと、一旦緩急あれば義勇、公に奉ずるというような、こと危急の場合、突発事件などに際して、あわてず憶せず、難にあたり奉仕するというような解釈が唱えられている。
Scouting for Boys にも、そう説明した章があることは周知のとおりである。けれども、私は危急の場合非凡な働きをするばかりでなく、平生平凡なことにも役立つ――と考えたので“やまびこ”誌には、これは「役立てつねに」と云いかえた方が、わかりやすいと書いたことがある。ところが今回は、何に備えるか、何を備えるか、という自問が出た。
まずそれには、心に備えるところ、かつ心を備えねばならぬ――と考えた。次には体に備え、丈夫な体を作らねばならぬ――と思った。しかし、それだけではいけない。溺者を助けるにも、水泳や結索法や人工呼吸法が出来なければ駄目、そこで技術(わざ)を修め、それが自分で出来なければならぬ。すなわち、技に備え、技を備えねばならぬ。そこで人格、健康技能を備えよ。つねに――ということになるが、この三つは結局、世のため人のため、奉仕するに備えることである。私はここまで考えた時にScouting for Boys 巻頭にベーデン・パウエルが挙げたScouting 指導の四つの柱を思い出して、豁然としたのである。
The subjects of instruction with it fills the chinks are individual efficiency through development of Character Health, and Handicraft in the individual, and in Citizenship through his employment of this efficiency in Service
とベーデン・パウエルは記している。
私はHandicraft を単に手技と解釈せず、術科、技能、すなわち術技と解した。この人格(Character)健康(Health)技能(Handicraft)と奉仕(Service)に備えること、かつそれらを身につけ築き備えることを、この標語は示していると思ったのである。
だから、ベーデン・パウエルは必ずしも突発事件や危急に備えよとばかりは考えなかったと思う。Scouting 指導の主たる土台は、人格造立、健康安全、技能取得、公益奉仕の四つにあること、そこでスカウトは、この四つに備えよ、いつも、つねに、とこれを要約して標語化したものだと思う。“Be Prepared”の標語“そなえよつねに”の真意はこれだと思った。さらにこの四つの柱からほぐして解析すれば、Scouting の構成原理がつかめるように思われた。
(昭和26年11月1日 記)
いよいよ2010年が始まりました。今年がみなさんにとって素晴らしい年になりますよう、コミッショナー一同心より願っております。
目の前にいるスカウトたちのために、そして世界中の全青少年のために、そしてより良き社会で平和に暮らしていけますように!
今、自分にできることを!
平成22年 正 月
福岡中地区コミッショナーチーム一同
11.標語について
「そなえよつねに」という標語は、「何時も役立つよう準備ずみであれ」という解説でひと通りの意味はつきているようである。けれども標語の性質上、語呂なり簡潔性なりから「そなえよつねに」の7字の発声に要約されて見るとどうも「役立つ」という意思がぼやけて、「そなえよ」という言葉の方が強く響くのであります。
「そなえよ」という言葉そのものは決して悪くはない。心を引きしめる言葉であり、自らむちうつ語勢をもっている。であるからよいのではあるが、ややもすると非常突発の事件に備えるとか、天災地変に備えるとか、悪くすれば戦争に備えるような錯覚を伴わしめる。勿論そんなこともあるが、私はその事ばかりにこの標語の解説をすることに異論を唱えたい。即ち隊長が年少幹部班の訓練で、この標語をこのように解説するとしたならば、単純で素朴な少年達は、ただそれのみにこの標語を理解してしまうのではあるまいか?
そこで私はこの解説は、「役立つ」ということがその意味の根本であることを力説したい。英語でいうUsefulである。スカウトは精神において技術において、他の子供と異なる高度の訓練を身につけるのであるが、それらはことごとく役立つことによって修得の甲斐が生ずる。救急法や結索法を知るということは、単にそれが出来るというだけでは意味をなさない。それらの技術をスカウト精神によって役立たせることにより、初めて意義を生ずるのである。逆説的に云えば、役立つようにそれらを修得するにある。
結索のねじ結びに例をとれば、最初の綱の掛け方に、右廻しと左廻しの2通りがある。右廻しに巻いて右掛けして捻る場合、右からくる圧力には、締まる一方であるが、左からの圧力に対しては弱く、時としてゆるんで用をなさなくなる。左からの圧力に耐えるためには左巻き左かけにして捻る必要がある。このように「役立つ」ということを念頭において修得すれば、ここに修得の意義を生ずるのである。若しそうでなく、漠然とその時の工合いで右かけや左かけをやって、それで捻り結びが出来たと考えるような訓練をしたならば、突嗟の場合、真に「役立つ」かどうか怪しいのである。ましてや結索競争の場合、1メーターそこそこの短いロープの尾の方から通して、ねじ結びの型だけを作るような「要領結び」を指導者が得意になって教えるとしたら、結索ももはや一つの邪道に陥り、「役立つ」ということから遠く逸脱してしまう。私はこうした種類の隊をしばしば見ることによって日本のスカウトは「要領スカウト」になりそうな不安を感じている。
こうした考え方で私は「そなえよつねに」は日常生活の一つ一つに対する我等の生き方を示したもので、決して突発時に対する用意のみ指していない。むしろ平凡なることにも、そのものをマコトならしめるよう忠であれ――ということ。そのために汝の修技を役立たせよ――ということの方に強い意味があると思う。平凡なことを非凡に行なう。――ということにもなろう。
「そなえよつねに」を私は「役立てつねに」と云いかえて味わっているわけである。
(昭和25年2月20日 大阪に立寄って)