2009年12月29日

ちーやん夜話集10「奉仕とは」

10.奉仕とは
「うちの団でローバー隊を作る計画があるのですが、肝心のローバーたちが、まだ迷っています。」という。「なぜ迷っているのか?」と問うたら、「ローバーは、地区や県連の行事に奉仕せねばならんでしょう。そうなると自分のことが出来なくなる。損するみたいだ、と思うらしい。」という答えであった。
 私は、「せねばならんとは、どういうことですか? 強制されるのですか? 奉仕をしないと工合いが悪いから、やむを得ずする、という受け身的な考え方なのですか? やらされるというような奴隷的使役なのですか?自発活動での奉仕じゃないのですか?」と、連発式の詰問をした。相手は沈黙した。

 私はさらに追い討ちをかけた。「奉仕は力だめしですよ。自分がどれくらいお役に立つだろうか、という力をためすのですよ。だから損にはならない。」と、たたみかけた。すると相手は、「ははァ…力だめしねェ…と、感心したような、びっくりしたような、かつ、半信半疑のような顔をみせ、せきばらいを一つして、急に話題を変えてしまった。
 私は、この日以来、「奉仕とは何ぞや?」という課題ととっくんだ。スカウティングにおいて、究極の行動である「奉仕」ということについて、ひとつも研究していなかった自分に気がついたからである。研究していないくせに、口では奉仕々々と、よく云う。こいつはいかんぞ、と自分を叱った。以上が序論である。
 さてここで、「奉仕」という言葉について考えてみよう。奉仕とは、「つかえたてまつる」という和訓で、何につかえるか、と、いうと、神につかえる、と、いうことから来ているようである。あるいは、これは、神道の教義にとらわれている解釈かも知れないが、神に限らず仏に対してもいえるであろう。即ち、至上なものに仕える――ことがその極限であろう。国に対する奉仕におよび、外国では、National Service といえば兵役のことになる。
 大正年間以来、日本では、「社会」という意識がもりあがってきて、社会奉仕という言葉が流行するようになった。それが昭和のはじめ頃、商業主義の盛行によって、サービスという言葉が、百貨店の用語のようになった。
 たとえば、大阪の大丸あたりが、そのキャッチフレーズの元祖ではなかろうか? 当時、大阪では、「ほしいしゃかい」するのだ――と「社会奉仕」をひやかした者があったことを私はおぼえている。これは、なんらかの反対給付や、儲けや、謝礼を予期したもので、結局、取引であり商売だった。これは、奉仕を看板にし、奉仕を売り物にした商魂でしかあるまい。
 昭和も15年頃になると、奉仕という言葉では、もうききめがなくなった。それほど、この言葉は新鮮味を失い、無力となった。そこで、これにかわる言葉として「滅私奉公」という言葉が作られた。奉公と奉仕と同義語で、それに滅私という冠詞がくっついて、人心をとらえたものである。
 日本人は、こういう言葉の魔術にかかりやすい国民だといわれる。奉公とは、公、すなわち、朝廷に奉るということ、この公が、後に主人公の公になり、主人につかえることとなり、奉公人という言葉が生まれた。雇傭人である。武士仲間では、主君に奉公すると云った。公はオオヤケであり、主家のことである。後にオオヤケは、公衆とか、社会大衆を意味するようになった。公共のことである。
 スカウティングにおける奉仕の意義を考えてみよう。
 スカウティング・フォア・ボーイズの巻頭に、いわゆるスカウティングの四本柱とでもいうべきものが載っている。それは、人格、健康、技能(手技)と奉仕の四つである。この四つの、どれか一つが欠けても、スカウティングは成り立たない、と、いうように思われるのである。そして、その最終段階に、この奉仕があげられているのである。われわれのスカウト教育は公民教育だといわれる。公民生活とは結局は奉仕生活なのだから、これは当然である。
よって、スカウティングのあらゆる指向は、この「奉仕」に帰納されなければならないであろう。
 いま、このことを、次の帰納によって立証してみようと思う。
日々の善行――これは奉仕訓練の根本であり、積みかさねであって、方法的であり、かつ目的的である。これを忘れては奉仕はあり得ないといえよう。
 そなえよつねに――これも奉仕を狙っての心がまえ、そして奉仕技能の準備である。何に一体そなえるのであるか? それは云うまでもなく、奉仕のチャンスを探し求め、チャンスを発見するや、まってましたとばかり奉仕を敢行する準備を完了することである。
「準備ずみ」であらねばならぬ。
 日々の善行といい、そなえよつねにといい、どちらも自発活動がその生命であって、しなければならぬからするのではない。他から命ぜられてするものでもない。奉仕したら損をするとか、トクをするとかいう境地を超えた純粋行動である。
 こういう行動が無条件にいつでも出来る人間になるように幼い時分から練習する。その練習期にあっては方法的に或る条件を与えて条件反射をくりかえす必要があろうけれども、その積みかさねが、いつしか習性となって無条件反射的に出来るようになる。そういう人間にすることがスカウティングである。観察推理訓練の目的も、また、ここにあるのである。
 ちかいの第2――いつも他の人々を援けます――も、
おきて第3――スカウトは人の力になる――も、奉仕の徳目である。
さらに誠実、忠節、友誼、親切、従順、快活、質素、勇敢、純潔、敬虔のそれぞれは、いずれも、人につかえる道である。スマートネスもまた、人に悪感を与えないというモラルである。
まじめにしっかりやり、互いにたすけあい、自分のことは自分でする。おさない者をいたわり、そして進んでよい事をする――というカブスカウトのさだめも、みな、人への奉仕を意味する。
 これら、人への奉仕は、いいかえれば、自分への奉仕――自己研修――ではないか!
 B-Pは、自己研修という言葉をあまりつかわない。「自分への奉仕」と云っていたことは注目に値する。自己研修という言葉は、東洋的、日本的な表現であろうが、何となく個人主義的、利己的、打算的な感がする。これについては、後述したい。
 さて奉仕活動を発動するにあたって、その奉仕分野は、いろいろ考えられる。
 まず自分の属する班や組の者に対する奉仕、それから次長や班長、組長、デンチーフ、デンマザー、デンダットへの奉仕、上級班長や隊付や副長補に対する奉仕、副長、隊長に対する奉仕、団委員、団委員長に対する奉仕、それに、集団としての組、班、隊、団、地区、県連、日連への奉仕、世界のスカウト圏への奉仕、ひっくるめてスカウティング運動への奉仕がある。
 これ以外に家庭、隣保、地域、職域、学域、公共社会、国、国際世界への奉仕もある。
 また災害救助や犯罪防止や防火、植樹、自然愛護、環境衛生、交通安全、助けあい運動、募金などへの奉仕もある。場合によっては軍役奉仕もあり得よう。宗教奉仕も考えられる。
考えてみれば、日々の生活は、一刻といえども奉仕ならざるはなし、どれかの奉仕に直面している、といえる。
 ここで問題をしぼって、先に述べた自己研修と奉仕について、もう一度考えてみたい。
あるローバーたちは、前述のごとく、奉仕に引き出されるならば自己研修が出来なくなるという。そして損だと考える。私は、この段階の人たちに、次のような図を示したい。
<図略>
このように、彼らは、ふたつに分けて考えているらしい。ところが、私は、こう考えている。
<図略>
 その理由は、奉仕することによって自己研修が深まり、自己研修によって、奉仕もまた進歩するからである。
 そして二つの円のかさなっている部分は、自己研修すなわち奉仕であり、奉仕即自己研修であって、どちらか片っ方だけでない、と思うのである。
 B-Pが、最後のメッセージに述べたところの、真の幸福というものが、丁度この部分にあたるように私は思う。すなわち他人の幸福をはかることによって自分の幸福を得る、という思想である。東洋思想では、これを、「徳」と云う。「徳を養います」――とは正に、これをさしている。私は、こういう奉仕が、本当の奉仕だと思うのである。
 滅私奉公のような、自分をギセイにする奉仕――は、まかりまちがうと、とんでもない奉仕になりそうだ。なぜか? これは売名的になったり、人権を無視した強制になりがちだからである。奉仕によって自己も活かされねばならない。自己を殺したのでは、それは奉仕ではなくて、虐殺である。自殺を美化したものにすぎない。いいかえれば、義侠心を満足させるだけのための奉仕であるならば、それは自己満足は出来るだろうが、人は迷惑せんとも限らない。報償をアテにした打算的な、交換条件的な奉仕は、胸糞がわるくなる。名誉心にかられた奉仕も、ずいぶん世の中にはあるものだ。
 結局、「善」とは何か? という課題と同じようなことになってきた。「奉仕とは何か???」
 これは純粋無垢の善や、無条件の奉仕をした人だけが答えられるもので、そのようなことを、まだ、したことのない私には、いくら頭をひねっても答えられないのは、甚だ残念である。私は、ひとの答案をひっぱり出して、ご覧にいれるほかはない。
 中国の古哲人、老子は――善行無轍跡(ゼンコウ、テツセキ、ナシ)と答えた。善行の純粋なものは、車の通ったあと、ワダチ(轍)のあと(せき)がひとつも残らない。輪跡がない、というのである。ひとに見せびらかそうにも何もない。まことに空気のような善行だ。
 印度の聖雄とうたわれたガンジーは、「真の善行は、純潔な者だけが、なし得る」と答えた。「善行をひとつ、してやろう」などと考えてから善行するような作為の人間は、もうすでに不純だ、というのである。いわんや善行したら、ほめてくれるだろう、などと、報酬を予期するような善行は、不純だから善行ではない、と、いうのである。
 ここで私は、「スカウトは純潔である」という、おきて第11を思い出して、冷や汗が出た。
 英国のおきて第10にこれがある。英国のおきて(Law)は、最初9ヶ条だった。ところが、みんなが、もう一つふやして第10に「純潔」を入れてほしいと、B-Pにおねがいしたところ、B-Pは最初は反対した。その理由は、おきての第1から第9までをひっくるめてぶつかっても、「純潔」には勝てない。それほど純潔という徳目は比重が大きいのだ。もし、これを第10に加えるならば、純潔の比重は10分の1にしかならない。とんでもないことだ、というのであった。B-Pのこの説明は、大いに味わうべきもので、おそらく、ガンジーの言葉と相通ずるものがあるであろう。とにかく純潔は、10分の1ではないぞということを土台として、結局、おきての第10に加えたそうである。
(レイノルズ著、“Boy Scout Movement”による。)
 実行した人の言葉には、力があるものだ。B-Pの云う「自分への奉仕」という言葉を味わいたい。
(昭和36年3月6日 記)

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2009年12月28日

ちーやん夜話集9「忘れられない話(その2)」

9.忘れられない話(その2)
1929年(昭和4年)7月14日は日曜だった。われわれ日本からの派遣団28名は、ギルウェル野営場でもう5日目のキャンプを迎えた。前日の土曜にロンドンからテントをかついでキャンプに来ていた英国の多くのスカウトたちは、遥か東の日本からこんなに多くのスカウトが来ているとは想像もしなかったらしく、私たちのテントにあそびに来て、物珍しそうに質問やら会話をし、お茶(紅茶)を味わったりしていた。

その少年の中に、15才になるJ(名は忘れたのでJとしておく)というスカウトがいた。ロンドンのある銀行の給仕をしているとかいった。たぶん2級スカウトだったと思う。
たのしい週末の一泊キャンプを、はからずも日本のスカウトと語った彼は、夕方、すっかり帰り支度をして、われわれのテントにやって来た。さよならをいいに来たのだ。彼は帰りがけに、何かお役にたつことがあったら命じてください、といった。わたしたちは彼のスカウトらしい申し出をよろこぶとともに、あることを思いついた。それは写真の現像と焼き付けをロンドンのDP屋でやってもらい、それをここまで持って来てほしい、というたのみであった。近くのチンフォードの町にはDP屋がないのと、われわれはジャンボリーのため月末にはギルウェルを出発しなければならないし、その前に、スカウトコースに入所する者もいるので、ロンドンまで出かける時間がない、という説明をこの少年にした。その結果、J少年は快くひきうけてくれたのである。数人が彼にたのんだので相当の量になった。
さて、こんど君は、いつ、ここへキャンプに来るか? とたずねると彼は、次の週末は、隊集会で来られない。だが、ウィークデーに何とか都合して持ってきてあげます。と約束して帰って行った。
あくる日7月15日、第71期スカウトコースが始まるので吉田、中村、田村、阿左見、吉川、小林の6人はそれぞれ入所した。22日からはカブコースに幾人か入所した。入所しなかった者は別のプログラムをしていた。
何日だったか記憶にないが、スカウトコースを出てからはもう、ジャンボリー行きの準備で連日多忙だった。ある日、夕方といいたいが、ここでは日没は9時半であるからまだ夕方という感じがしないが、6時頃、野営場の(スカウト用の)門のところで大声で呼ぶ者がある。その頃、日本のテントしか立っていないので、きっとわれわれを呼んでいるにちがいない。一体誰だろう? と思っているうちに誰だったか「あっ、Jだ、Jだ」という。そうか、たのんだ写真を持って来てくれたらしい――と、みんな気づいた。そこでこちらも大声で「よう、はいってきなさい」と叫ぶ者、「おいしいお茶があるよ――」と、いう者、だまって手をふる者、…。
ところがJ少年は、門の棚によりかかって手を左右にふって、「はいれない」と合図をするばかりである。
「なアーンだ。はいってくればよいのに――と、ぶつぶついいながら、二、三人駈けて門のところへ行った。
J少年は、たしかに、たのんだ写真の現像と焼き付けとを一括して大きな封筒に入れて持ってきてくれた。別の封筒には代金の勘定書とツリ銭がはいっていた。
「ありがとう――」と私たちは肩をたたいたり手を握ったりした。
ロンドンから汽車に乗って約30~40分、そして歩いてまた30~40分、わざわざ届けてくれたので、せめてお茶ぐらい接待しよう、と考えたから、私たちは、テントまで来ないか? とさそった。ところが、彼の返事は実に意外だった。
「君たちは、この門のわきの掲示板が見えないのですか? スカウト服でない者は入ってはいけない――と書いてあります。ぼくは、今日は銀行の帰りですのでスカウト服ではありません。だから、はいれません」
いかにも、それはギルウェルのキャンプチーフのかかげた掲示である。
「だってもうやがて日は暮れるし、ほかにだれもいないから、はいってもいいじゃないか」と、ある一人が笑いながらいうと、J少年は直立不動の姿勢で、
「ぼくらが作ったルールを、ぼくらで破れますか?」といいきった。
この一言に全く私たちは一発くらった。
「わるかった」と、口の中であやまり、頭をたれるほかなかったのである。
昔、ウォーターローの戦で、ナポレオンを破って世界の英雄となった英国のウエリントンは、その光栄につけあがって手のつけられない権力者になった。ある日、馬に乗り多くの従者をつれてロンドンから田舎へ出かけた。
そこにとても大きい牧場があった。牧場の外をぐるりとまわったのではとても時間がかかる。そこで彼は牧場の中をつききろうと一むちくれて馬を牧場に乗り入れた。すると1人の少年があらわれ、入ることならん、と両手をひろげた。ウエリントンは、馬上にふんぞりかえって
「おれを誰と思うか? ウエリントンだぞ!」と、どなった。「ウエリントンだろうと誰だろうと、ここを通ることはならん」少年の眼には怒りの光さえさした。「きさま、なまいきなやつだ。一体誰にたのまれてじゃまをするのか?」
「ぼくは番人です。牧場主のいいつけをただ忠実に守るだけです。」と答え、さらに一段と男らしく、「それが、ぼくのデューティーです。」と、直立して叫んだ。
ウエリントンは、そのけなげな少年の最後の言葉に打たれた。そして馬からおりて帽子をぬいでこの少年にあやまり、遠まわりして駒を進めた。
この話は、私が子供の時分、本で読んだ有名な話である。
今でも英国には、デューティーを果たす立派な少年がいることに私は感心した。
そんな思想は封建的だ――と、けなす人があるかもしれない。主人、主君、傭主、上長からのいいつけに盲従したり、虎の威をかりる狐みたいに権力者をカサに着て威張るならばそれは封建的であろう。
「わたしたちが作ったルールを、わたしが破れますか?!」という言葉には自主性がある。たとえそれは、ギルウェルの所長が作ったおきてなのであっても、結局スカウトが作ったのだからスカウトがこれを守ることは当
然である。おきてというもの、ルールというものは自分が作ったのではなくヒトが作って、押しつけるものだ、と考えるから交通規則も中々実行されない。そんな連中になると自分が作ったものだったら、誰にはばかるところなく、一層破り放題破ることだろう。
よい話というものは、今を去ること33年前の話でも、昨今の話のように、心によみがえり、心をうつものである。
(昭和37年1月17日 記)

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2009年12月25日

ちーやん夜話集8「忘れられない話(その1)」

8.忘れられない話(その1)
1929年の夏、私はギルウェルパークの第71期スカウトコースのクックー班に入所を許された。この班は何人いたのか記憶がないが、8人あるいは9人もいたかもしれない。なにしろ今を去る33年の昔のことである。

私以外は皆異国人だ。従って印象に残っている顔姿も少ししかない。ビルマの鉱泉会社の社員だという英人(この人の話が本稿の中心となる)と、消灯後1時間ぐらいベッドの上に端座して、お祈りをしていた若い清教徒の英人、すばしこく要領のいいデンマーク人、それにセイロンの黒光りするヒョウみたいな小柄の男(ネービスという名、この男の名前だけおぼえている)このほかにフランス人が一人いたようだ。あとは全然記憶にない。
ビルマから来た英人、仮にA君としておこう。この男は年令30代(当時、私も36才だった)中肉中ぜい。筋肉の頑丈さからみて私は軍人あがりだろうと思った。私はいつもこのA君とコンビになっていた。
炊事当番の時でもこの男と二人でした。彼は私を“Mura”とよんだ。私の苗字の後半だけをよぶわけ。入所第1日の夕食から二人は炊事係となった。A君は私に「ゲッツ、ムルキ!」と命じた。ムルキとは何か、
私にはわからない。ムルキとは何か? と聞くと、目をとび出させて私の顔をAはにらむ。スペルとたずねるとM、I、L、Kだという。なアーンだ、牛乳か…と私は彼をにらみかえした。そして牛乳を貰いに行った。英人は、iをUと発音し、aをアイと発音することに気づいた。
わがクックー班は、9日間のコースの内の6日間、連続優勝した。これは地の利と人の和のたまものであった。
みなよくやった。終わり頃、1泊の1級ハイクに出かけた。ギルウェルの方式によると班長、次長は毎日交代するが、1級ハイクの時だけ班の中の一番優秀な者が選ばれて班長をつとめることになっている。
A君がそれに選ばれた。次長は班長が自由に選任するのが英国のやり方だ。私はAから次長を命ぜられた。よし、ひとつ日本のよいところをみせてやろう、と私は承諾してAの手を握った。
ハイクのパトローリング隊形、これは英国流に非常にきびしい。各員がうっかり互いの間隔をつめると、班長はすぐ号笛を短奏して注意する。次長は一番先頭をきるので私は実に快心のよろこびを抱いた。地図と想定書を持ち、ぬけ目なくあたりを観察してサインとか異変を発見する。エピングの巨大な森の中を進むのである。
自分はこれまでに日本の中央実修所を3回と地方実修所を1回終了し、常設近畿地方実修所の副所長兼隊長であるし、大阪藩長である。少なくともハイキングについては人一倍やかましい奴だ。そこいらのヘッポコに負けてたまるもんか――と、自分勝手なことを考えながら、まてよ――向こうからバイクで来る男はスパイらしい。
観察また観察、腕時計で時刻を確かめてノートする。コースはエピングの森を北に向かうとみてとった。コンパスは最後の必要な時以外、見てはならないことになっているからだ。だいぶん歩いた時複雑な辻に来た。五辻になっているのだ。ふと見ると草むらの中に置手紙を見つけた。次長たるものが見のがしてなるものか! 駈けていって開封すると、「この五つ辻を北に進み約1マイル3/4の地点にある教会の尖塔にある風見車(注・ウエザーコック)を写生せよ」と書いてあった。
私はちょっと立ち止まって周囲に眼をくばった揚句、よし、この道だとばかり今来た道の延長線、すなわち方角をかえることなく五つ辻のまん中の道を選んだ。すると、うしろで班長が号笛を吹いて私に停止を命じ、片手信号で分岐点まで戻れという。
これは面白い! 彼の方位判断と私の判断との対決だ。ひとあわふかしてやろう、と、悠々と分岐点へ戻った。
班長は、「この道だ!」といって斜め右に行く道を示した。「スカウトは服従する」という英国のおきて第4に従って私は班長の命ずる方向に進んだ。
一面の森とジャングルとの中に作った舗装道路だ。私は分岐点を出る時、そっと時計を見ておいた。ここから1マイル3/4の地点か――教会々々と前方を見つめ、かつ、時計をしらべた。分岐点から10分、15分…来たのに教会らしいものが出てこない。18分になる。ピッ、また班長の笛だ。私はとまった。それみろ、と思って班長のところへとんでいって、ぼくの判断の通りだろう、こうなったら、このジャングルを左へまっすぐ横断すれば、必ず教会へ出られるからジャングルの中をもぐろう――と、私は班長の肩をたたいた。すると班長は大声で、「ノー」と叫び、「進路をあやまったら一旦分岐点まで戻るのがルールだ。戻ろう」という。私は不満だった。そんな手間をとらなくてもよろしい。自分のカンに狂いはないのだからジャングルの中をつっきろう、と云った。再び「ノー」と班長は叫び、次いで「命令だ」といって全員分岐点まで戻るよう命じた。
五辻に戻ると班長は、なにやらひとりごとを云いながらコンパスを出して、路上においた。私はすぐ、近づいてコンパスをのぞきこもうとした。チラと見ただけで私は自分の判断した方位が正しいことを見てとった。そのトタン、班長は私を抱くようにして約1メートルあまり私をコンパスから遠のけ、彼もその位置に直立したまま根気よくコンパスの針の静止するのを待つのである。
私は、はっきり「やられた!」と自覚した。英国のスカウトは、コンパスの見方を基本通り実に馬鹿正直に実行しているのだ。腰にはスカウトナイフだの金物など、コンパスに影響を与える鉄性のものがないとも限らない。
そんなことぐらい日本の2級スカウトでも充分知っている。知っていて実行しない。これが日本人の欠点だ、と私は自責した。
結果的には私の方位判断が彼にすぐれていた。その証拠に教会のウエザーコックを発見してスケッチをした。
その地点は、さきに誤って進んだ道からジャングルをぬければ、今までかかった時間の3分の1ぐらいの短い時間で教会が見えたであろう。
日本のスカウトならおそらく10人中、8人か9人までは、私のようにジャングルをぬけて近道を選ぶであろうが、馬鹿正直と笑えば笑え、ルールに忠実であり、B-Pに誠実なスカウトは、単に英人に限らず、わざわざ分岐点まで戻って、正しいコンパスの使用法を実行して私心のないスカウティングを実践するだろう。私は一生の教訓を受けた。このハイキングにも、わが班は優勝したが、その印象よりもこの教訓の方が、うれしかった。
ある朝、A君と私は2度目の炊事当番になった。今はないそうだが、その頃のコースには料理法のテキストが備えてあった。
「玉子を班の人数分だけデキシー(鍋の名)に入れ水を入れて火に15分間かけること」なアーンだ、玉子をゆでるのか、と私は思った。幸か不幸か連日上天気で薪はよくかわいている。土もかわいている。火はどんどんもえた。マッチ1本で点火できた。まもなく鍋の中はふっとうしたらしく玉子が音をたて湯気はぷっ、ぷっと、鍋のふたをつきあげてきたので、私は鍋を火からおろそうとした。
するとAは腕時計を見ながら「ノー、ノー」と連発した。次の言葉は「あと27秒ある」という。私は驚きかつあきれ、同時に感心した。あとで私は、15分というのは標準だよ、快晴の夏の野天で、あんなに火勢が強いときは14分でも13分でも出来あがると思う、というと、彼は、「それは、わかっている。けれどもルールはルール、命令は命令だ。」とうそぶいた。いったい、どっちが本当のスカウト的なんだろう、と私は今でも考えさせられることがあるが、Aのいうことはやはり正しいと思う。
基本を学ぶ者の姿は馬鹿正直でなくてはならない。誠実こそ「基本の基本」だと思う。日本人は特有のカンにたよる傾向があり、その上、結果だけを考えて、方法を正規にふまず、はやまくで要領よくこなす癖がある。これではモノは出来ても人間は出来ない。
(昭和37年1月13日 記)

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2009年12月24日

ちーやん夜話集7「初夏随想・指導者のタイプ」

7.初夏随想・指導者のタイプ
隣の家から金魚を3尾もらった。早速ガラスの金魚鉢を買って来て入れた。一本の金魚草が入れられており、底の方にはきれいな小石が沈んでいる。
それを見ていると、いかにも初夏の気分がするし、見とれている自分は童心にかえったようである。

金魚は、赤と黒と、そのまだらとの三種でまことに鑑賞に値する。水の深さは25センチもあるので、彼等は上ったり下ったりしてかなりの運動をたのしんでいる。
あくる朝、私は床の中から金魚鉢を眺めた。その小さい宇宙の中には、美しい朝の光線によって、平和な小世界が、たしかに実在している。造物主は、まことに霊妙な制作をし給うたものだと感心した。あの小さい魚の体内には、呼吸器もあるし消化器もあるのだ。骨も血管も神経もある。感覚器官や運動機能もある。生命体、組織体、有機体として一応完備したその個々のものである。その個々は絶対的個体であって、その一小部分ですら他の生物と取り替えることの出来ないものである。
彼等は、金魚草にたわむれて遊び、水中の酸素を吸い、小石の苔を食う。動物、植物、鉱物の関連、相互扶助、共栄、バランス、そして調和から来る平和の世界が示されている。これは、スカウティングの在り方への示唆のようである。
けれども、金魚たちは大海を知らない。それを知れ、というのは無理である。彼等は塩水にむかないからである。
そこに限界というものが厳存する。
スカウティングは、まみずでもあるししおみずでもあるらしい。そのしお水は世界の七つの海にあふれ、五大陸の岸を洗う。スカウティングは、五大陸、七つの海にゆきわたっている。
その塩水に、世界の少年少女や青年、そして大人までが洗われ、浄められ、毎日毎夜を幸福に暮らしている。平和に。これは金魚鉢の、もっと、もっとでっかい一種ではあるまいか。
もしかして指導者たちが、もう、スカウティングの免許皆伝を得たかのようにうぬぼれるならば、大海を知らない金魚と変わるまい。
金魚や金魚鉢には限界が厳存するが、スカウティングには限界がない。
人間には悲しいかな限界がある。限界のある人間が、限界のないスカウティングと共に在りたいと念ずることは、また、念じてそれが叶えられつつあることは、本当に本当に感謝にたえないよろこびである。
(昭和33年6月16日 記)

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2009年12月22日

ちーやん夜話集6「隊長がエライか? 地区委員がエライか?」

6.隊長がエライか? 地区委員がエライか?
近頃“逆コース”という言葉が流行する。
弁証法的にいえば、これは進歩への一つの必然なプロセスで、時計の振子が右に動いたのが次に左に振るのと同じ運動であって、右から見れば左するのが逆コースであり、左から見れば右するのが逆コースとなる。だからどっちみちこれは相対的な見方で、いつの世にも逆コースはあるわけだし、これが進歩の運動法則なのだ。

そこで、逆コース必ずしも逆ならず――と、いいはることも出来る。そして、この逆コースがもしなかったら、万有は停止し死滅するともいえる。バランスをとる貴重なる運動なのである。そして進歩とは、よりよきバランスの向上ともいえよう。
水無月というのに、梅雨でこれでは水有月ではないか? と思うだろうが、新暦と旧暦とのズレからこんな疑問がでるのだ。水無月は6月にちがいないが、それは旧暦の6月で、新暦では7~8月頃にあたる。五月雨(さみだれ)というのが新暦6月の梅雨に相当する。
こんなことをなぜ書くのかというと、今の日本人、特にアプレゲールたちは、モノの本来のワケを知らないで、いろいろの現象、実体を独断的に判断して、幾多の誤りを犯し、自分自身、自家矛盾を作って、あるものは、他人をつるしあげて威張り、あるものは悲観して自殺する例が少なくないからである。この種の“逆コース”を本末テントウ型と名づける。大戦とその敗戦、それにつづく占領治下の十年間、日本の過去と現在とは、まっぷたつに切断されたので、どこか血の通わない部分が出来たため、モノの考え方が断層的になったせいである。
だが、それだけが原因ではない。明治時代の急速な文物輸入と、いわゆる先進国の仲間入りをあせった結果から来る、消化不良の固疾が今では慢性になって、こいつが第二の原因になっている。
『多数決だから、それはよいことにきまっている!』と、いう頭も、この病気のせいである。『そのことがよいから、多数の者が賛成するのだ!』この方が正解であり、真理である。しかるに多数決は常に正しいという逆コース的判断は本末テントウ型で誠に困ったものだ。このような逆コースは、決して進歩をもたらさない。衆をたのんで『真理』をおおいかくすもので、政治では多数党横暴となり、経済面、社会面ではいろいろの闘争を起こし、結局『勝った者の天下』という勝敗世界に日本を陥れる。いつになったら真理日本が現出出来るか? すこぶるなさけない。
隊長がエライか? 地区委員がエライか?
エヴァンソン氏著『地区運営』(Evenson:“District Operation”)の14ページに隊長が隊長本来の任務を忘れて、地区委員の仲間入りをして行政面にタッチすることを得意とし、自分の身分が何階級も上昇してスカウトのオエラ方の仲間入りをしたかのように考えるのはとんでもないことだ――とボエンを喰わしている。
そして『彼(隊長のこと)は、スカウティングの中の単位隊指導者に、既になっていることを忘れているのだ! 彼は多くのスカウターの中の最高の階級に彼がなっていることを知らなかったのだ!』と警告している。
この隊長最高論には私も大いに共鳴する。さきに、万年隊長論を書いたのも、表現の仕方は違うが、エヴァンソンの心境と同じ所意にもとづいている。地区の委員や、コミッショナー、県連の理事やコミッショナーなどが、隊長よりエライという考え方、隊長からそれらの職に転ずることは、栄進であるとみる考え方には私は大反対である。地区県連のそうした人々の側でも、隊長よりオレの方が上役でエライと、もし考えるならば、とんでもないくわせ者である。かかる本末テントウ的逆コースは是正されねばならない。
私は思う――隊長以外のスカウター全ては、ことごとく、隊長への奉仕者助言者であると。エヴァンソンは、県連はスカウティングに奉仕する『まかない方』だといっている。或いは車掌さんである。乗客は隊長である。
総長を始めとした理事長、理事、局長等々は、皆隊長に奉仕するために存在している。
ただし、私は隊長諸君にも申し上げたい。もし君は1級はおろか2級の指導も出来ないようなら、一人前の隊長でスカウターの最高位だ――と、うぬぼれないこと。一人前の隊長とは、少なくとも10人の1級、30人の2級を作りあげてから言い得るのではあるまいか?
それだけではない。B-Pの意図に即するとおり、本当に班制度を活用しているか? 或いは今はまだ年月浅くしてそこまで到達しないけれども、そうする努力に人並み以上励んでおり、基礎だけは出来た――と、いうのなら。
隊長より地区委員の方がエライ、地区委員より、県連理事の方がエライ、理事長はその中でもエライ、日本連盟の理事は、それよりエライ…というような考え方が、もし実在するならば、それは二つの大きなミステークがある。それは
1.地区を通じて、県連なるものは隊の連合組織だと誤り考えているためである。
県連は決して師団司令部や総本部ではない。日連も然り。むしろ、県連、地区は加盟育成団体の要請によってスカウティングを、大成せしめるため隊長たちに協力する奉仕後援連合会なのだ。
2.委員とか理事とかいう個人には執行力も何もない。
委員会とか理事会とかいう機関にはそれはある。彼等一人一人の個人は、単にその会のメンバー(一員)たるにすぎぬ。個人の彼がその会(委員会、理事会等々)から業務執行を委託されて、その会としての仕事を行う場合の彼は公人であろうし、当然業務を行う権利義務をもつが、そうでない場合、彼は単なる個人である。外国語には委員とか理事とかいう言葉は委員会のメンバーと表現している。機関とそのメンバー、公人と私人の立場をはっきりしている。隊委員会(団委員会)なども同様である。こういうことがハッキリわからず委員だから理事だから、議員だから、代議士だから――エライ特権がある、と考えるあいだ日本のデモクラシーは、半熟である。
今やハイキングの好季節である。
アメリカの本を見ると、隊委員会は、その隊の全ての少年に、年間少なくとも十日十夜のハイキングと、キャンピングをさせることを義務づけているようだ。(ただし、そのハイキングとはどこかでやっているような、お弁当持って、毎日曜江ノ島に遊びにゆくようなとはちがう。)
2級訓練は主にハイキングで、そして1級訓練は主としてキャンピングで――という通念に従えば、今や2級と1級訓練の好機である。
各隊とも、この機を逸せず少なくとも5人の2級1人の1級を作ってほしい。32人の一隊で2級は少なくとも10人欲しい。それは、
1.班が4つとして班長として4人。
2.カブ隊が生まれるとして4組のデンチーフとして4人(6組――最大限――なら6人)
3.あとの2人は他の任務に
2級がたくさん出来ないと班別制度の充実に、進級制度の操作に、技能章課程の実施に、ひいてはシニアースカウトのプログラム展開に、そしてカブスカウトの組織に一大支障を来すのである。
2級がたくさん出来るか出来ないかは、スカウティングの死命を決するヤマである。
(昭和27年6月5日 記)

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ちーやん夜話集5「ローバーリングは電源である」

5.ローバーリングは電源である
1956年、英国のローバースカウトの制度が改正になったとき、当時の総長ロード・ロウオーラン氏は、「私はローバーたちが、これに対して忠実な支援をおくってくれること、ならびに、ルールを守って、ローバーリングをして、スカウト精神生産工場たらしめるだけでなく、スカウティングの全ての部門が、本当の電力をそこから引くことのできる発電所とするように、このローバーリングを、最善の水準にあげることを望む」と云った言葉を、特記したい。

次に、B-P、「スカウティングは、組織ではなく運動である」と云った言葉を、これとならんで、考えたいのである。
このMovement(運動)であるという意味は、たしかに大きなボエンだと思われるのであるが、私にはまだ、確とした意味がわからない。推察の程度でいうならば、スカウティングは、制度や規約や、組織で縛られた窮屈な、発展性のないものではなくて、生物のように、有機体のように、成長し、発展し組織員以外の人々のあいだにも伸びひろがるものだと、いうように解される。見方を変えれば、「運動である」ことの方が「目的」であって、その目的を達するための「方法」として、「組織」がいるのだ、と説いているような気がする。
私は、こういう見かたから、B-Pとロウオーラン氏のいう「発電所」「運動」という二つの言葉を味わっている。すなわち、スカウティングは、現在、全世界の800万人の青少年にまで及んでいるが、これで満足すべきではなく、この運動は、1000万人の人々、さらに、2000万人の若者や、あらゆる人たちに向かっても伸びてゆかねばならないであろう。数量の上だけでなく、質の面でも、さらに掘り下げられ、層を深め、充実されねばならない。
換言すれば、遠心運動と、末心運動の二つの運動を増大せねばならない。そういう「運動」だ、と示し、そしてその電源はローバーリングにある、と、言っているように思うのである。
すなわち、このスカウティングという大運動のメカニズムには、カビングという部分や、ローバーリングという部分がある。けれども、この、メカニズムにおいて、ローバーリングこそが、その電源だという解説である。
そこで、もし、ローバースカウトたちが、その使命を怠って、発電しなかったなら、また、発電はしても、弱い電力しか出さなかったとしたら、スカウティングという大運動のメカニズムは、充分な活動をすることができずに、お茶をにごすほかないことになる。
英国は、前述のように1956年4月1日、電力強化のため、大英断をもって、ローバースカウトの課題を大幅に改正したわけである。
日本のローバーリングは、1960年現在、そのプログラムもきまらず、発芽期にある。このような制度(進歩制度のような)は、作ろうと思えば、机上のプランで、わけなく作れる。衆智を集めれば、1カ月で出来る。
しかし、それでは、「運動」にならない。これが、運動から盛りあがったものとするには、ローバースカウト自らの力で、発芽し、育て、組み立てた制度でなければならない。時日や年月はかかっても、その方が本当である。
「根」をもつからである。そうでなかったら、「造花」にすぎない。
今夏、第1回のローバームート(青年スカウト大会)が、那須日光にわたって催された。全国から、大学ローバー(立教、慶応、大谷、龍谷、京大、中央大学)や、地域団のローバーたちが参加した。こんな愉快なものなら毎年集まろう、と皆が云った。最初、「日連は、ローバーリングに対して定見をもたない」とか「案を出さない」とかいう声もあったが、最後には、「自分の舟は自分で漕ぐべきだ」、「ローバーのことは、ローバー自身で建設すべきだ」ということがわかって、少しずつ、電力を出してきた。そして、おわりには、すばらしい成果を、おさめたのであった。
私は、ロウオーラン氏の、「電源論」を、みんなに、紹介しておいた。
単位団でも地区でも県連でも、ローバースカウトの発電力がなかったら、機械はうまく動かないだろうと、思う。
(昭和35年11月1日 記)

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2009年12月21日

ちーやん夜話集4「スカウティングのXとY」

4.スカウティングのXとY
 XとYというとこれは二元方程式に用いる符号である。スカウティングという方程式にもXとYという二元があると思う。
 私は、Yという符号を教育訓練という符号に用いる。即ち隊長やその他の指導者はこれに当たる人である。副長以下上級班長、班長までに及ぶだろう。隊指導者は講習会、研修会そして実修所などのコースで勉強するが、これはYの勉強である。スカウティングは教育であり、訓練であり、即ちYである、ということは決して誤りでない。ゲームであるが訓練である。レクリエーションではない、と。

 カブからだんだん年令がのぼってBSになりSSになる。ここまでの段階は全てYである。彼等は世間の小学生、中学生や高校生たちと何かちがう教育訓練をうけている自分を意識し、それを誇りとし名誉としている。そういう対象の指導にあたっている指導者たちにも、普通の大人、社会人などと違ったものを自分の生活に感じる。
 それは決して悪いことでもなければ、まちがいでもない。ところが、今ローバースのことを考えている私には、RSもやはりYでゆくべきか? という問題が起こっている。そして、Yの部分もあることはあるけれど、いま一つのものがある。それはXだということを今考えている。即ち教育指導という求心的なものと反対の方向(反対の方向という表現は極めてデリケートである。)として遠心的なもの、これをXと名づける。ただし遠心とはいうものの、これは決してスカウティングから足を洗って外れることではない。足は依然としてスカウティングの核心についているのだ。今私がデリケートだというたのは、その点である。青年期になると、今まで辿ってきたものの逆を行ってみたい気がする。心理的にはレジスタンスである。こういう年頃にRovering があるのである。その意味で彼は二元方程式を解かねばならぬ。
 Xとは運動(movement)としてのスカウティングのことを私はそう表現する。即ちスカウティングは決して教育訓練のみではないということである。movement としてのスカウティングがあるということを考えたい。換言すれば、頭初述べたようにXとYの二元であるということを。
 このXとYのバランスがとれていないとスカウティングは発展しない。日本にスカウティングが伝来して48年になるのに、これが一向に広まらない原因は、遠心力にあると私は診断する。十人が十人、百人が百人、皆が隊長になる必要はない。君たちが永年スカウティングでうけたご恩をお返しする気があれば一介のRSとしてこれを果たす道は立派にある。即ち立派な家庭人として、良き社会人として、スカウティングで得たものを遠心的に働かせて本当に、ちかいの第2、おきての第3を実行する道である。真宗で説く還相回向であり、感謝報恩の生活である。
 このmovement の在り方が本当にスカウティングをPRする道であろう。私どもは、日本のスカウティングが、年少のCub や、Boy あたりの年令者に偏していたため、考え方が永年、教育訓練の面(即ちY)にのみ執着してしまい、実修所に入らねばリーダーでないように思い、教育の万事をその線で割り切ろうとしていた。然るにSSからさらにRSに対象がのぼって来た今日、卆然として反省させられたのである。むしろYは、Xになる前提であり、課程であるとさえ思う。本当のスカウティングはこれからなのだ。Xなのだ?
The enthusiastic Scout has suffered from this in the past and we have been accused of making ourselves into “peculiar people,”. If we are to be able to give of our best to Scouting, we must be in close contact with community life.
「こんなことか今まで熱心なスカウトは悩んだ。我々も自分を“変人”にして来た罪を犯している。我々が全力をあげてスカウティングに尽くし得るためには、公共社会と密接な接触を持たなくてはならない。」
これはロウオーラン氏(英国の総長)が“Plan for Rover Scout”の序文の末尾に書いた一文である。
 私自身、変人になっている。スカウト狂人といわれる人もあって中々面白い話もあるが…これも悲しいかなスカウティングが世間で特殊扱いされていることから起きている。私は日本のRovering を築くことによってこれまでの不備を充足し、日本のスカウティングの完成を期したいと思う。
(昭和31年6月5日 記)

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2009年12月18日

ちーやん夜話集3「偉大なる自発活動」

3.偉大なる自発活動
 B-P祭を迎えるこの日、私は“おきて”を厳しく自分に深めねばならない。次の話は、イギリス連盟発行の“ザ・スカウト”(週刊誌)の1955年11月4日刊行の誌上に主筆のハゼルウッド氏(Rex Hajelwood)が執筆したものによる。それは僅か10才のカブ、ロバート・マックリントック少年(Robert Maclintock)の行なった偉大なる自発活動ぶりについてである。1916年発生したウルフ・カブの運動は今年まさに40年を迎えるので6月16日から24日までギルウェルパークで記念行事が行われる由であるが、私はこの佳話を広く日本のスカウト兄弟に伝え、もってこの祝福の言葉にいたしたい。

 1955年9月17日、ハゼルウッド氏は北部アイルランドに旅した。同夜は、Larne でのオールド・ウルブスの集会に臨席し、夜遅く45里の道をBallycastle に引き返し、80人の班長たちと会合で歌い語って1泊したのは23時20分であった。海岸であるこの地方はその夜、雨雲低くたれて恐ろしい風で海は荒れていた。
 翌日、朝早く一少年の勇敢な人命救助の話で皆は夢を破られた。その行動に力をかしたトメルティ(Peter Fomely)というビッコの男の話によると、――「私は防波堤の終点にある小店に立っていました。その時、波は大体50尺位の高さで防波堤を乗り越えぶちあたっていました。そして2人の男の大人と2人の少年が、波にさらわれて港の中へ流されているのを見ました。
 一人の少年がエビの壷をしっかり持っている。私は防波堤を大急ぎで走って救命帯の置場へ行きました。長いロープをみつけて、その少年(その少年はギルバート・ハミル Gilbert Hamill)の方へ投げました。彼は大波のてっぺんに乗っていたところです。不幸にしてロープは流されたので、もう駄目だと思いました。すると、ロバート・マックリントック君が反対側からその大荒れの海中にとび込んだのです。
 ハミルをつかまえようと泳いだ。やっと彼の腕をつかまえて救命帯の方へと泳いだが、一度は腕がはなれてハミルは海中に深く沈みました。だがロバートは再び彼を捕えてとうとう救命帯まで着き、もがきにもがいてハミルの身体に救命帯をとりつけたのです。それで私と他の人とで岸へ引き上げました。岸へ上がるとロバートは、もう一人大人が助けを呼んでいるから僕はすぐひきかえす、というのです。
 私たちは、こんなに荒れているので行ったってもう遅い、と止めましたが彼はいうことをきかずあばれました。ボートを出すことも出来ないほどの大シケで、その上、真っ暗でした。何しろ、10才の子供でしょう。私はこんな勇敢な子供を見たことがありません。」
 Ballycastle 在住の隊長の談、そして助けられたハミル少年の感謝の言葉が載っているがこれは省略する。
 ロバートは、イギリスの総長から、ブロンズ・クロス(青銅十字章)を授けられた。これは自分の危険をかえりみないで人命を救ったものに与えられるものである。
 この話は、これで終わったのではない。ロバート家では、子供は暗くならないうちに家に帰るように、というさだめがある。その晩、暗くなってもロバートが帰ってこないので、父と母とは、彼が帰ったら叱らねばならんと話し合っていた。夜8時になっても帰ってこない。8時30分に帰ってきたので両親から大いに叱られ、まっすぐ寝床にはいるよう命ぜられた。それで、彼はこの事件については一言も親にいわず神妙に床についたのであった。
 父母が、ロバートの勇敢な行為を知ったのは翌朝、近所の人々が、ロバートは元気かどうか見舞いに来てくれた時であった。恐らく親たちは、びっくり仰天してロバートのベッドへ駆けつけて、昨夜の出来事を息をはずませて尋ねたことだろうと想像される。
 ロバートは実にいい少年である。彼は、罰からのがれようとはしなかった。完全に叱られ、完全に誉められた。
 罰は罰、賞は賞。ハゼルウッド氏は、こう書いている。B-Pは、こういう立派な少年を世に出そうとして心血を注いだのだ。大人でも負けるロバートの偉大な自発活動よ! 私はこれを読んで、12のおきてをゆっくり口の中で唱えた。ロバート君に感謝をささげて…。
B-P祭の劇に脚色いかが?
(昭和31年2月13日 記)

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2009年12月17日

ちーやん夜話集2「スカウティングと社会性」

2.スカウティングと社会性
 ある日私は、次のような手紙をある県の人から受けとった。それは――要するに――我々スカウトは、あまりにもコチコチになり、スカウティングにこだわって、社会と隔離していると思う。それで、社会ともっと近接する教育をするため、夏の隊キャンプを隊キャンプとしないで、「夏の村」とし、村長とか村会とかを設け、村の自治的様式でキャンプしている。それがいいかどうか、意見をききたい。――というのである。

 私は、キャンプの仕方としては、それも一つのやり方であろう。しかし、隊キャンプをやめてまで、そんなことをするとは、外道である。スカウティングのキャンプというもの、乃至は隊キャンプ本来の性格を、もっと勉強してほしい。我々は、キャンプを、キャンプのためにするんじゃなくて、スカウティングのためにするのだから、目的と方法との関係をハッキリ究明してほしい。と答えておいた。
 そして末尾に、私は――「社会性などという言葉は、善行をしない者の口にすべき言葉ではない、社会性とは換言すれば、善行性であろう。我々スカウトは、コトバでモノをいわないでオコナイ(実行)でモノをいいたいと思う。少なくとも、私は、そういう人間になりたい。」と付記したのである。
 私は、このことから、「社会性」ということについて考えさせられた。そして、スカウトたちが、社会から隔離している色々のことも考えてみた。
 ある市の、社会教育課に勤めている人で、地区コミをしている人が、スカウトはあまりにも独善的で異色すぎるから、一般に普及しないのだ。よって制服を廃止し、1隊32名以下という制限もなくし、誰でも今日からリーダーになれるような、し易いものにしたならば、コドモ会などを吸収できて大きな団体になれる。三指の礼なんていう特殊なものをやめて、普通の礼をしたらどうだ。――と、いうている。というので、地区コミともあろう者が、けしからんことをいう。あの男は社教屋の立場からモノをいうクセがある。社教屋としては、BSのようなものは、一般性がないと診断するらしい。――など。
 これに似たりよったりの意見が、「倍加運動」という声の下から出ているらしい。要するに「スカウティングの社会性」或いは「スカウティングと社会性」という問題になる。
 本職で一人前の人生を送る上に、スカウターとして奉仕している日本の指導者は、時間的に、世間的なツキアイをなるべくやめて、スカウトのために働くのであるから、そういうイミでの社会性というものは、スカウティングに熱心になればなるほど減少する。
 少年の場合も、スカウトの訓練に時間が別にあるわけではないから、自分で時間を作らねばならない。従って、一般の学友とのツキアイは少なくなる。その上、制服というものを着るから、ホカの者からは一種特別人扱いをされる。海外にでも派遣されようものなら、英雄扱い、または名士扱いをされよう。
 結局、何か、他の人々とちがう、あるものを感じる。または、世人に感じさせる。日本人のような人の見方をする国民には、当然の現象であろう。
 以上の文章(言葉)を、くるっと裏返してみると、社会にもスカウト性がない。または足りない――という答えが出て来る。足りないから、我々は社会に、スカウト性を植えつける先駆者として、「敢然として頂角を行く」という、ほこり、名誉、責任、自発活動、忍従、勇気、そして特異性がもりあがり、そこに同志意識、スカウト兄弟感、仲間愛、などを含むところの運動(ムーヴメント)になってしまった。B-Pの、生まれ甲斐はここにあったし、我々の生き甲斐もここにある。
 さあ、こうなると、スカウティングの側にも、社会の側にも、「不足」がある。何の不足か――といえば「吟味の不足」「反省の不足」「謙虚の不足」「認識の不足」「理解の不足」――「協力の不足」――等々。
 だが、私はそれらを超えた、もっと大きな不足を叫びたい。(スカウト側の不足ですぞ!!)それは「善行の不足」である。
 これは「奉仕の不足」以上に不足している。(私には)
 B-Pの教えのように、そして、ちかい、おきてを本当に実行し、日々の善行に励むならば、誰が狂人扱いをしたり、別人扱いをしようぞ。いうところの「社会性」などというコトバは、問題にさえならなくなる。口にする必要がなくなるから。
 「行なうことによって学ぶ」(Learn by doing)という、B-Pのやり方をモトにして考えるならば、我々は「行なうことによって語る」のが本命であろう。しゃべったり、書いて示したりするのは「行ない」の足りない証拠で、まことにはずかしい。
(昭和32年9月19日 記)

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2009年12月16日

ちーやん夜話集1「スカウト象にさわる」

1.スカウト象にさわる

「象でなく、像ではないのですか?」
「まァ、だまっておしまいまで読みなさい。結局同じことになるけど…。」
群盲触象――てな漢語がある。沢山の盲人が象にさわって、勝手な観察と推理をくだし、それぞれ自分が正しく、他人の説はマチガイだといい張る。けれども、誰か、その全貌をつかみ得ただろうか? という、ボエンである。

 スカウト象――この象(像)の名を「スカウト」という。命名者はB-Pである。B-Pが描いた理想人の像である。幻像である。
「ははァ、足が4本あるネ。」
「それはネ…CS、BS、SS、RSという4本ですよ。」
「いや、それはネエ君、人格、健康、技能、奉仕の4本柱ですよ。」
これは理論派の盲人。
「この長い鼻ネ。これで食べたり、飲んだり、物をつかんだり、イキをしたり、ポンプになったり、ホースになったりするそうだが、してみると、スカウト象というものは、一般コドモ大衆に公開して、いっそうのことコドモ会にしてしまう方が、利用価値があるんじゃなかろうか?」「君はバカだな。この象牙の方が金になるのを知らんのか?」
これは利用派、実利派の盲人。
「一ペン位さわってわかるもんか。継続観察をやりなさい。」「僕は、和尚さんから白い象の話をききました。仏さまが乗るそうですネ。」
 このような、声もきかれる。けれども、スカウト象の全貌をつかむことは中々むつかしい。隊長を何年やったとか、実修所へ何回入所したとか、所長であるとか、コミッショナーであるとか、理事長であるとか、何であるとかいうても、この象の全貌をつかんだという証明にはならない。
 将棋の升田は、九段と、玉将位と、名人位の三つのタイトルを得たが、これは「実力」でかち得たものだ。
 我々は、少年に「実力」で初級、2級、1級、菊、隼、富士、をとるようすすめているくせに、指導者は果たしてご自分の実力で、理事や、コミッショナーになったであろうか?
 「実力」以外のSomething を足場として、立っているのではあるまいか? 曰く年功、曰く年令、曰く金力、曰く社会的地位、曰く情実、曰く強引に…。
 折角つかんだ隊員を、1年か2年で逃してしまい、その補充に毎年何人かの新入者をいれて、1級以上の等級に進み、富士まで登った者は全国に20人もいない。何年たっても日本のBSは富士山の二合目か三合目あたりを登ったり降りたりしていて、それから上の方は雲で見えない。結果的に富士山の全容をよう見ず、二合目、三合目のみをもって、これ富士山なり、スカウティングなり、とわかったようなツラをしている。これが現在の段階、こう考えてみると、ウヌボレの度が、きつすぎる。下手なゲームのやり方だ。
 B-P描くところのスカウト像は、そんなヤスモノではない。安い評価をしなさんな。スカウト像は生物だから、毎年大きく伸びつつある。像と書くと無生物と思われ易いから、私は象と書いた。ニンベンは、いいかえたらウヌボレヘンだから、ない方がよい。
 本当に積みあげて出来た立派なローバースカウトよ出て来い。一体、幾人いるのか?
年令だけのローバースなら、スカウト以外の青年の中にも居る。
 ジャンボリーのような、お祭りばかりに熱をあげるのが能じゃあるまい。事前訓練を欠いた野営大会、キャンポリー、ジャンボリーというものは、事前訓練という助走路を欠いているから飛躍がない。
 結局は、“Scouting for Boys”をよく読んでいないため、象がつかめない。
 ローランド・フィリップス著「班別制度」を読んだら、いかに、みんなが現在やっている班制が、班制の擬態であるかにびっくりするであろう。大いにハンセイ(反省)すべき点あり、勝手に理解し、我流で押しとおし、狭い視野内で速断し、想像を過信し、自分自身を高く評価しすぎると、足もとの今まで雑に積んできた煉瓦はくずれる。
 SS、RSと積みあげる頃になると、下の方がくずれる。
 私は、象の全貌がまだわからない。そう考えると、ほんまに、ゾウとする!
(昭和32年7月13日 記)

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ちーやん夜話集「盟友中村知の後世にのこしたものは」

盟友中村知の後世にのこしたものは
 ベーデン・パウエル卿が英国で、ボーイスカウトを始めたのは、今から55年前の事(昭和37年当時)である。その頃、日本の文部大臣は牧野伸顕で、よく英書を読む人だったので、すぐこれを知り、その進んだ青少年の社会教育法に眼をつけた。それで、時の広島高師(今の広島大)の校長の北条時敬が、英国に道徳会議の代表として出張するにあたり、この調査をもあわせて依頼した。北条はこの前年に英国で発足したこの教育訓練を見て感心し、その文献や用具を揃えて持ち帰ったが、その直前内閣が変わったので、文部省では、折角のこのよき材料をもてあまし、これを北条に渡した。

 そこで北条は、彼の校長をしていた広島高師の附属中学校の生徒にこれを伝え、6個隊を作ってボーイスカウトのような訓練を試みたのであったが、たまたまその一つの城東団という隊の中に、わが中村知少年がいたのであった。彼は子供心にこの野外生活の訓練に大きな魅力を感じ、恩師北条の精神指導に打たれた。そしてこれが彼をして、一生この運動に心身を捧げしめるに到ったのである。
 中村知はその後拓大を卒業し、さらに京大で東洋史学を専攻し、大阪府立高津中学(現高津高校)に教鞭をとった。
 その頃、わが国にも、少年団運動が起こった。大正3年頃、京都には中野忠八が、まず少年団を作ってこのベ卿のボーイスカウト式の訓練をはじめたのに、彼も大いに興味を感じて、中野とも親しく交わり、連絡もとって、彼の高津中学の生徒の中の希望者を集めてボーイスカウトをつくり、彼はその隊長として、スカウトの訓練を実施した。
 大正11年には、少年団日本連盟(第一代総長、後藤新平)が結成されたので、彼は喜んで他の同志とともにこの傘下に入り、特に佐野常羽に師事した。この佐野は、英国で親しくベ卿の知遇を得て教えを受け、またボーイスカウトの訓練の本山ともいうべき、ギルウェル実修所に学んで来た人で、大正14年には、富士の山中湖畔で、日本ではじめての指導者実修所を開いた。彼は勇んでその第一期生となって修業し、佐野の人格指導に傾倒した。その後彼は佐野にも愛され、ずっと彼の教えを受け、1929年には英国で世界ジャンボリーが開かれたので、佐野に従って渡英して参加、続いてギルウェル実修所にも学んだ。それで彼は、自信を得、ますますこの道に精進し、一方に高津中学ボーイスカウトの実際指導をしたり、大阪連盟の改造にあたり、一方では佐野に従ってますますこの道の指導者養成面の指導と研究に没頭した。
 彼には、少年指導に必要なユーモアがある。それでなかなか話題をまいたものだが、その一つを紹介すると、世界ジャンボリーへ行った時、豪雨がきてキャンプの道がドロンコになったので、彼は日本からゲームのためにもって来た竹馬に乗って悠々濶歩して、世界の少年達を驚かせたが、佐野からは、その茶目っ気を叱られたそうだ。また、彼は詩と音楽を勉強して、沢山のよいスカウト・ソングを作詞、作曲した。どれも、彼の体験からほとばしり出たもので、スカウト気分がよくあふれた曲だが、その中にはなかなかこのユーモアのきいたものもあ
って、少年達に愛唱されている。
 戦後、わがスカウト運動が再建されるや、指導面に円熟した彼は、本部の専従指導者となって実際指導を行い、那須の常設野営場長を5年務めたが、その間に不幸眼底出血で倒れた。それでもう荒行はできなくなったが、その不自由な眼で、彼は天眼鏡を使って、ベ卿の“Scouting for Boys”などの宝典を次々と訳出して日本スカウト道にバイブル的な光を与えた。もう一つ彼の高津時代の隊員たちは、今になって皆立派に成長し、あるいは能力ある外交官、学者、技師長などになって活躍しているが、その中の数人は、また現在の日本スカウト運動の最有力な中堅人物となっている。われわれは「弟子を自分より偉くつくる」ことを誇りとしているが、彼こそ身をもってその範を示した男である。
 第一代後藤総長は「金を残したり、仕事を残したりするより、人を残して一生を終わるこそ上の上たるもの」といわれたが、彼こそこの言葉を実行して一生を飾る人である。

昭和37年7月記
総長 三 島 通 陽

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ちーやん夜話集「はじめに」

は じ め に
 中村先生は、昭和25年の暮れから公務として、ボーイスカウトの研究や、資料の翻訳に専念して居られました。その間に、各地の親しいスカウターの要請に応じて、余暇を見つけては、その時々の思いを書き送られました。あるものは県連の機関紙に、あるものは、地区の機関紙に掲載せられて、当時の指導者から、夜話(キャンプ・ファイヤー・ヤーン)として活用され、また、読物としてスカウト達にも深い感銘を与えました。
 しかしその後先生の健康がすぐれず、続けて書いていただけなくなり、また昔のものは、散逸したり、書架の隅に埋もれてしまっていますので、せめて一冊にまとめて、リーダー達が、好きな時に読めるようにしたいとの希望が強くなりました。
 そこでなんとう誌さきがけ誌の生みの親である松本石翆、住谷豊両氏の努力で、それらの機関紙に出た文が整理され、発行が企画されました。全部を通読した結果、現在でもリーダーの参考になるものも沢山ありましたので、関係者だけでなく、出来るだけ多くの人々に読んでいただきたいと考え、「夜話集」として印刷発行することにしました。
 ここに集録されたものは、先生が日本連盟を代表し、見解や研究結果を発表されたものではありません。その時に応じて、私見を書かれたものであります。また、先生にしても、10年20年後の現在も全く同じ考えでないことが多々あると思います。
 しかし、われわれには、中村先生ご自身のスカウティングの足跡を見る思いがするし、その精究教理に骨身を削ったお姿に、新らたに敬服の念を覚えます。
 この本によって、若いリーダー達が、スカウティングというものを、なおよく知ってくれるとともに、今後自分ながらの研究を進めるための指針にして頂けたら、幸甚に思います。
なお、ここに集録された文は、当用漢字や現代かなづかいにないような先生独得のことばや表現法を交えて書かれてありますが、中村先生の妙味を生かす意味で、大部分をそのままにしました。よろしくご判読下さるよう念のため申し添えます。

ちーやん夜話集刊行会
宮 本 守 雄、村 田 正 雄、松 本 石 翆、住 谷 豊

Posted by tsutsumi at 18:41 | コメント (0)

ちーやん夜話集連載開始

かの有名な「ちーやん夜話集」です。ご存じない方もいらっしゃると思いますが、絶版になり、目にすることができなくなりました。
データが入手出来ましたので、みなさんに是非ご紹介したいと思います。
昭和37年に当時の総長である三島通陽氏が「ちーやん」こと中村 知氏を紹介しておられるので、「はじめに」と三島総長の紹介文を掲載して、その後に夜話をひとつづつ紹介していこうと思います。

Posted by tsutsumi at 18:38 | コメント (0)