52.指導者のタイプについて
私は、スカウターの中に、「教える」ことのうまい人、或いは、「種子を蒔くこと」のうまい人と、「育てること」のうまい人との二種の、カタ(型、タイプ)があるように思う。
「教える」ということも、教育現象の立派な一つの分野である。それは、「真理を正しく教え」「それに近ずき、それを追及する方向を示す」という業務をもつからである。オリエンテーションである。真理とは「在るべきところ」のことで、ザイン(sein)である。それを教えるのが「教」の本旨であって、この分野は、小学校から大学、さらに大学院を貫く教師の仕事である。
ただし、教師だけがするもので、教師以外の者はしてはならん、とはいわない。私は、あまり好きではないが、例のマスコミ(新聞、出版、放送、映画etc の共同攻勢)にしろ、これに参加して、いろいろな解説とか啓蒙をやっている。しかし、それだけでは「教育」の片面しか達せられないことを、よく知るべきである。
他の片面とは、「育」である。これは、ザインに向かってゾレン(sollen)する「行動」を意味する。和の用語でいえば、「在るべきところ(即ち、真理)に向かって、在らしめる(ゾレンする)こと」である。ベストを尽くす――マコトを尽くす――ということばはこれにあたる。
「在らしめる」――という表現に二つある。本人はイヤでもムリに在らしめる場合と、本人の自発活動によって「在らしめ」ようと、「自分」を発動するのを、第三者(親とか、先生とか、スカウターとか)が、これを助け、はげます意味での「在らしめ」方との二種の場合である。私は、アトの方の場合のことをいうているつもりである。
「育てる」とは、これをいう。私は、商品価値を増さんがために、本人が極力イヤがるのにかかわらず、針金でくくったり、まげたり、切ったりして、盆栽(ボンサイ)の松の木を育てるような、育て方は、断然とりたくない。
育てる――という仕事には、短気は最大の禁物である。気永くこれを見守らねばならぬ。本人の意思を尊重せねばならない。
またあまやかしてもいけない。本人の心になり、本人の気にならなければ、反撥を買う。よく本人の個性と個体(身体)を知らなければならない。本人の生活環境をよく観察せねばならない。本人の特技と、そのウィークポイント(弱い点)も知らなければならない――。
私は、日本の教育界を、大局からのぞき見て、「教」の面だけは一応、先進国に追いついたが、「育」の面は、残念ながら非常におくれているだけでなく、おくれていることに政治家も教育家も、文化人も、気づいていないと、思う。
この盲点に、一番深刻に気づき、そして、その分野に献身出来る人は、おそらく、スカウターであるにちがいあるまい――という所感を抱くのでこの一文を草した。
B-Pのやり方は、結局、「育」の一語につきるように思う。そして彼自ら、それを実践し、実践から教理を発見し、その教理に基づいて、道を立て、道心堅固、ついになしとげた。のだと思う。
(昭和34年2月16日 記)