41.班活動について
近来各地からの色々の報告や資料を見る機会に恵まれ、大変勉強になっている。私はそれらを通じて、BS運動の動きをじっと見ているのですが、職業の余暇をさいて、この運動のために情熱を捧げられている何千人かの人たちに深厚なる敬意を払うのであります。
それと同時に、みんなが実に貴重なる時間をさいて建設されているのだから、すべての努力が正しく顕現され、そして、その結果が正当にあらわれて帰って来なければならない。
これがマイナスになったり、ダブった徒労に終わってはつまらぬ。また力を入れねばならぬ点に力が抜けていて、入れなくてもよい所によけいな力が入れられているような場合もあろう。そうしたことは、のちに、我々お互いの省察、反省または評価、ときに討議によって見出され、指摘されて是正され、妥当化されて“あるべきところに”“あらしめられる”のである。それが一つの新しい経験を形成する。実に貴重な経験である。
こうした意味から、今日は一つ“班活動とは何ぞや”ということを考えて見たい。これがハッキリしていないと、今云ったようによけいな所に力を入れすぎて、大切な他の一面を見のがすことになる。
普通皆さんによって考えられている“班活動”という言葉は班会をしたり、班訓練したり、ハイキングしたりキャンプしたり、色々の奉仕をしたりするいわゆるプログラム面での活動をのみ指しているようである。だからハイキングもやらない、班会もやらない場合、班活動はゼロなり――という評価になる。例えばコミッショナーの人が、ある隊の監査に行く、そして評価をする。
そこの隊委員や隊長に対して自分の所見を告げて助言するような場合、班が週に1回班会をもち、週1回の班訓練をやっており、月1回位、班ハイクをしたり班奉仕の作業をしていたりするならば、まずその班の班活動は可である、或いは優であるという評価になり勝ちである。――班活動は活発である。クラブハウスを使用し、全く自発的に行われている。満足すべき状況にある――というような講評として表現され勝ちである。
私はそれでよいのか?――といいたい。
ある程度プログラム面では立派に針は動いている。その時計は決してとまっていない。動いてさえいれば時を刻み進展するだろう。それを私は否定するのではない。けれども、それに対する他の一面が大切だということを見逃してはならない。それは一体何か?
私はこれを“班の機能”という本来の作用に照らして検討すべきだと考える。たといプログラムは進行していても、それが班制度のもつ基礎的、本来性から来る“班の機能”によって自発的、自主的に発動して、その力がプログラムという水車を廻したのか、それとも自分のやむにやまれぬ本然の作用ではなく、誰か別の人(例えば隊長、隊委員または県連役員…)が廻してくれた水車(プログラム)の上に、班がフラフラと乗せられたり、乗っかったりしているのを、判定者は判定を誤って、これを正しい“活発なる班活動である。満足すべき状況にある――”と評価したとするならば、このScouting たるや一場の喜劇でしかない。
私はこういったような、何だかコソバユイScouting が、ある地方では流行しているのではないか?――と空想(空想ですよハッキリ)することもある。
これに反して、班のプログラムは今一つうまく進展しない。集会の度数も月一回か二回、それも出席は53%位で欠席が多い。けれども出席した少数の者は熱心である。であるからその班活動は可である――と云えるかどうか? 私はこの場合も不可だと思う。それは――傍観者が一人でもあったなら、それはScouting の本来性から云って、班の機能を欠いていると診断するからである。
結論的に申せば“班の機能は、果たして正当に発揮されているかどうか?”――ということによって判定されるべきであってプログラム面のあらわれだけでは判定尚早なりと見るのである。
私はこの判定尚早がBS運動全体を至極安易な傾向に甘やかしているのではないか? と実は怖れている。これはお互いに、よほど戒心する必要があると思う。万一そのように甘やかされた班活動が批判されずに進展したとしたら、われわれのScouting は“行事”Scouting に堕し、健全にして正当なる班機能から生まれ出されるScouting でなくなって、班別制度という他の団体に持ち合わせのないこの特異性が、形あって魂なきものになってしまうと私は考える。そのときは、もう、それはScouting とは云えない。
私は今、何よりも、この擬態的班別制度を撲滅せねばならないと思う。
(昭和26年1月17日 記)