2010年02月10日

ちーやん夜話集39「自発活動ということ」

39.自発活動ということ
 私は最近自発活動ということをひとしお思いつづけている。スカウティングは自発活動に始まり、その不断の持続を以て一生を貫くのだということをハッキリ体得した。もし、自発活動によって入隊したのではなく、また、自発活動なくして班や隊が動いているのであるならば、それは、スカウトではなくて、少年団、または、コドモ会だと思う。

“Scouting for Boys”の巻頭にイギリスのチーフ・スカウトであるロウォーラン氏の序文の中に次のようなことが記されている。
 ベーデン・パウエルが“Scouting for Boys”を書いた意図は、既設のBoy's Brigade やY.M.C.A.の訓練を補足する考えで書いたのであった。然るにこの本を手にした少年達は勝手に班を作ったり隊を作り、隊長を探してきてBoy Scout を作ってしまった。女の子でガール・ガイドを生んだのも、弟分のコドモたちが、ウルフカブを生んだのも、年長の少年がローバーリングを始めたのもすべてこの調子である。――と。
 即ち、スカウト運動はベーデン・パウエルが作ったのではなく、少年それ自身が生んだのだ、と、いうわけである。私のいい方でいうならば、少年どもの自発活動が、作りあげたということになる。こんな珍しい教育は恐らく他にあるまいと思う。
 「私は、名誉にかけて次の三条の実行をちかいます。」――と、いう言葉は、実に、自発活動のスタートである。「私は」という一人称の単数に注意されたい。
 「我々は」といわず「私は」である。他の青少年団体は大多数が「我々は」という表現をとるのにスカウトは「私は」とハッキリ発言するのだ。人から、大人から、国家から、政府から命令されたり押しつけられたり、強いられたりして「ちかい」を立てているのではない。「私は」とハッキリいう以上、スカウトの班や隊は厳密に団体ではない。従ってスカウト訓練は、団体訓練ではない。それは、個別訓練が基礎である。それ故、個人別プログラムは、班や隊のプログラムより先行すべきである。
 少年一人一人皆、顔がちがうように性質も体質も、個性も、家庭も環境も、将来の志望も皆違っている。これを十把ひとからげに一斉訓練するようなやり方をするならば、自発活動は殺されてしまう。班や隊のプログラムは、各個のプログラムの最小公倍数、あるいは最大公約数のものであるべきで、それを因数分解するならば、8人それぞれのプログラムが因子となって出てこなければウソである。個別のプログラムも立てさせないで、徒に班のプログラムがどうの、隊のプログラムだ、と、アクセクすることは本末を転倒している。
 「我々は」でなく「私は」である点を充分考えてほしい。
 スカウト教育は個別教育であることは前述したが、個というものは個体のみでは生きてゆけないし、生き甲斐が出ない。訓練の方法としては切磋琢磨――磨きあい――の方法が効果大である。これがグループ・システムの起因である。人生の年令が加わるほど細流から大河、大海に出てゆく。大きな社会、広い世界に出てゆく。そこで、もまれて、人となる。と同時に、社会または集団の中で、自分がどういう生き方、働き方、をするかテストされる。(否、テストしてみる――自発的に。)そこに自分の分担がある筈。その責任を全うすることによって、協働(CO-Operation)出来る。これが、公民たるゆえんである。
 スカウト教育の目的は、B-Pのいうように、能率の高い公民を作るにある。公民教育であるが故に、協同体における協働の訓練を必至とする。たまたま、少年の本能として群居本能と名づける児群の生活がある。これを活用して教育の組立に役立たせる。これ、即ち班制度である。班制は協働訓練(チーム・ワーク)の単位である。
 隊は、もうひとまわり大きい協働体である。さらに隊の4つ5つをもって小地区とし、小地区の4、5をもって地区とし、数地区で県連となる。と、いうように、この協働体は、どこまでも班制を起点として遠心的に広がり国際協働に至る。
 こういう形を、従来の日本人の概念では「団体」あるいは「団体訓練」とよぶが、私は決して「団体」と思わない。私は「組織体」または「有機体」と呼ぶ。
 「団体」とは、観光団体のごとく、個人の希望を一時すてて便乗するものである。観光が終われば解散する。
 「団体とは離合集散体である」と私は極言したい。「一時的便乗体である。」他人の作ったプログラムに便乗して運ばれるだけだ。コドモ会がその一例である。きまったメンバーがあるようで実はない。出席不定、風の如く集まり、音もなく去る。メンバーとして分担もなければ責任もない。一体、参加しているのか傍観しているのか、ハッキリしていない。
 スカウティングには、一人の傍観者もあってはならない。「全員参加」を必須とする。ゲームの時も、班の営火劇でも全員参加を立前としている。一人残らず分担( part )をもつ。各人のpart の協働によってparticipation(参加)が成立する。それは、組織体、あるいは、有機体の原則である。一つの器官(例えば胃とか肺とか)でも欠席したなら生物(有機体)は生命を失うだろう。班とは生物である。定刻に一人でも遅刻または欠席すれば班の機能は滅殺する。否!、班は成立しない。ここに公民教育訓練の厳しさがあるのだ。「団体」は無機物である。
 B - P は“ Scouting for Boys ” に― ― The main object of the patrol system is to give real responsibility to as many boys as possible with a view to developing their characters. 「班制の主たる目的は、出来るだけ沢山の少年たちに人格を発達させるため、本当の責任を与えるにある。」と記している。
 責任を与えるとは、分担、役割(part)を与えることである。そのpart が協働して「全」となる。Each for all(全のための個)であるし、逆にAll for each(個のための全)でもある。
 「個」と「全」との相関関係である。即ち、スカウト各個人によって班は構成されて「班格――班の人格」が出来て発展するが、逆にその「班格」によってスカウト各個の人格も造立され発展されるのである。有機体とは、こういうものである。
 諸君!! 陶器と磁器とは一見、同じようで見わけがつかないものである。陶器は陶土で、磁器は石英粗面岩で作る、と一応常識的知識でいい得るが、さて、これはどっちか? と、きかれるとハッキリ答えられない。ボーイスカウトと、少年団も、これと同じ。古い人たちは、今でも、ボーイスカウトは少年団であり、少年団は即ちボーイスカウトだと平気でいうている。私は有名な、ある陶工の大家から、次のような名言をきいた。――― 陶器と磁器との区別は、本当にむつかしいです。陶器は有機物で生きているが、磁器は無機物で死んでいます。
 いわゆる何百年もたった古い名器(茶碗の如き)は、陶器ですから、生きていて、形も変われば色も変わりつつあります。だから貴重なものです。東照宮の古杉の並木と同じです。これは、陶器ですが(と、一つの作品を手にして)生きていますから刻々に、形も色も変わりつつあるのです。」と。私はその瞬間、ボーイスカウトは陶器で少年団は磁器だ!! と思った。実によく似ている。班制もあれば班長もある。ネッカチーフをかければ見わけがつかぬ。
 陶器を作らないで磁器を作っている人はないですか?
 その陶工さらに言葉を加えて曰く「磁器は、多量製産が出来ますから商売にはなります。陶器の中にも硬質陶器があってこれなら多量製造が出来ますが、内容としては有機物ではありませんよ。」と。
 自発活動の強い人間でなければ、物の役に立たないし、人格、健康、技能、奉仕も自主的に出来ず、結局、奴隷になるほかない。自発活動についてもっと考えたい。
(昭和30年5月8日 記)

Posted by tsutsumi at 2010年02月10日 10:04
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