2010年02月09日

ちーやん夜話集38「技能章におもう」

38.技能章におもう
 私の住む狩野村にも、那須第13隊が結成されて、スカウトの香りが村中に漂い始めました。宇都宮市にも、今度第1隊が出来て、同市としては始めてのことで張り切っているようです。とりわけ那須第13隊は、昔あった、那須野ボーイスカウトが再建され、昔の団旗が伝統旗と銘打たれて、新隊長に渡されたという点で、列席者達を感激させました。

 今の中学生、高校生たちは、昔の学生と外見も心情も大変ちがっていて、私にはどうも親しさがピンと来ないのですが、スカウト服の少年達は、その点、今も昔の少年と一向かわりなく、にこにこして明朗なのに2度びっくりしました。“自分はスカウトだ”という意識が、否スカウト教育の力が、現代の少年を、そのように育てているのだと、私は思いました。大変うれしいのです。
 私はかって、隊長をしていた10余年以前と同じ気持ちで、今の新しいスカウトと同席して、語り歌うことが出来ました。これは近来の一大発見です。国敗れ、人心一変するも、スカウトスピリットは昔と変わらぬ、そして、ひとたびこれに触れれば、いつの時代の少年をも、薫化せしめ、この道をたのしませることが出来るのだ、と。私のスカウト道を信奉する念は、いっそう強まったのです。
 ここに1人の少年がいる。その少年は学校では劣等生である。いつも先生から、叱られ、親は、その少年に期待をかけない。同級生も彼を尊敬しないのみならず、馬鹿扱いする。彼はみんなが、そう評価するのだから、まちがいなくオレは劣等生で、馬鹿なのだろう、と思う。相手にされないし、あそんでもくれない。すべて悲しく、さびしいが、もう泣きなどしない。あきらめた。彼は鶏に餌をやるときだけが楽しみだ。鶏だけが彼の来るのを期待し、よろこんで迎える。飛びついて来るから、彼が叱ると、彼のような劣等人間の命令でも聞いてくれる。こうして彼は学校から帰ると、1人とことこと歩いて鶏小屋へいそぐ。
 鶏の中にも、彼と同じような劣等生がいることがすぐにわかった。その鶏を彼は抱いてやった。涙がわいてその鶏の上にこぼれた。彼は、その一羽の劣等生を可愛がった。そうするうちに、彼は鶏飼育の名人になった。 
 けれども誰も彼が、鶏を飼う天分をもって生まれたとは思わない。彼も初めはそう思わなかった。“人はみな誰でも何か一つは人にすぐれた天分をもつものである。”ということを、新聞で、誰かが開いた座談会の記事を彼は読んだ。それで彼は、鶏を飼うことが、ひょっとすると自分の天分ではなかろうか、と考え出した。学校の科目の中に養鶏というのがもしあったら、オレは優等生になっていると思うようになった。彼は自己を発見した。その天分を伸ばしたいと思った。けれども、学校の先生は、彼を相手にしてくれなかった。
 スカウト教育に入らない少年の中には、こういう少年が、沢山いるのではあるまいか? 教育の機会均等などと、立派なことを口にしながら、教育家と称する人達は、限られた時間割で限られたページの本から、限られた者に、限られた教育をしつつあるのだ。
 スカウトの技能章制度の立案をなしながら、私は考えさされた。養鶏章をとるべく、この少年が一心不乱に、プロジェクトしたならば、彼はこの一つを通してでも、人格造立を果たすことが出来るにちがいない。劣等感よ! うせてしまえ!!
 技能章こそは、教育の機会均等のために、万人が一人残らず、自己の天分を自覚して、勇み立ってこれを伸ばす鍵となり、自己を信じて疑わず、自己のペースをよく守り、相対の世界にひきずられてくよくよすることなく、自己の技能をもって、よく他人のために奉仕する心を生ぜしめる、尊い発心をよび起こす鍵となることを意味すると私は思う。
 それにもし、技能章は職業訓練のためだ、などと思うような人あらば、この人、けだしともに語るに足らぬ。
教育とは、それほど打算的で、狭い小さい浅いものかね、といいたくなる。
(昭和26年10月1日 記)

Posted by tsutsumi at 2010年02月09日 15:51
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