2010年01月28日

ちーやん夜話集31「スカウト百までゲーム忘れぬ」

31.スカウト百までゲーム忘れぬ
 相当の老頭児(ロートル)が陣羽織を一着に及んで子供と一緒に兎狩りをやった。大阪連盟のB-P祭の記念行事は誠に愉快な企画である。
 私は妻から「オオドモのコドモ」という異名をつけられたので「大伴子朋」という筆名を用いることがある、まことに光栄である。

 B-Pは“Boys man”(子供大人)という言葉を発明し、スカウターは、童心をもつべしと条件ずけている、子供と一緒に遊べないようなものは隊長になれない、というのである。
 “Scouting”は“game”である――という言葉もこれと同じように名言である。もし我々が、日常生活までを一つのgame としてこれを楽しむようになったら、その人の人生はB-Pの理想に叶うのであろう。
 学校の勉強も、試験も、就職も、そして職業も、結婚も、家庭生活も、社会生活も、病気も、失恋も、煩悶も、
死も、悉くをgame としてゆけるかどうか――私には自信はまだない。ただし、このことは、悪フザケにフザケた一種のニヒル的な態度とは大いに違う。と、いう注釈が入用である。それ故にgame とは何か? ということの解明が不十分であるならば、極めて危険である。ピストル強盗のようなものは、我々のいうgame ではないのである。ストライキのようなものもgame じゃない。
 game は所詮「こころ」の問題である。形じゃない。従って、これは「わらべ、ごころ」(童心)がモトである。
 然し、その童心とは、良識をはずれた無分別であってはならない。少なくとも「大人の童心」は良識そのものであらねばならない。そこに指導性が内包されねばならぬからである。邪気のない、曇りのない、作意のない、極めて自然な天真らんまん、天衣無縫の利害を超えたものである筈。
 スカウティングをやっている仲間のみが味わい得る境地であろう。
 今一つ、つけ加えねばならぬ。それは、game には必ず相手があり、仲間が出来るということだ。
 人と人とのつながり、人に対する在り方、思いやり、Caie、covei 責任そして「励まし」「扶けあい」「協働」(CO-operate)などという、生き方が知らず知らずのうちに身につくようになる。
 利己的、独善的な横紙破りはgame をぶちこわす。ルールを守り、他の人々と結ぶことによってgame は成り立つ。
 「なんとう」誌が24号も続いたのも、game だからである。イヤイヤながら「仕事」として科せられたらモウ続かない。
 “スカウト百までゲーム忘れぬ”“雀百まで踊り忘れぬ”と、いう言葉があるが、私にはそれよりかこの方がピンと来る。
(昭和32年3月21日 彼岸の中日に記す)

Posted by tsutsumi at 2010年01月28日 11:30
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