31.スカウト百までゲーム忘れぬ
相当の老頭児(ロートル)が陣羽織を一着に及んで子供と一緒に兎狩りをやった。大阪連盟のB-P祭の記念行事は誠に愉快な企画である。
私は妻から「オオドモのコドモ」という異名をつけられたので「大伴子朋」という筆名を用いることがある、まことに光栄である。
B-Pは“Boys man”(子供大人)という言葉を発明し、スカウターは、童心をもつべしと条件ずけている、子供と一緒に遊べないようなものは隊長になれない、というのである。
“Scouting”は“game”である――という言葉もこれと同じように名言である。もし我々が、日常生活までを一つのgame としてこれを楽しむようになったら、その人の人生はB-Pの理想に叶うのであろう。
学校の勉強も、試験も、就職も、そして職業も、結婚も、家庭生活も、社会生活も、病気も、失恋も、煩悶も、
死も、悉くをgame としてゆけるかどうか――私には自信はまだない。ただし、このことは、悪フザケにフザケた一種のニヒル的な態度とは大いに違う。と、いう注釈が入用である。それ故にgame とは何か? ということの解明が不十分であるならば、極めて危険である。ピストル強盗のようなものは、我々のいうgame ではないのである。ストライキのようなものもgame じゃない。
game は所詮「こころ」の問題である。形じゃない。従って、これは「わらべ、ごころ」(童心)がモトである。
然し、その童心とは、良識をはずれた無分別であってはならない。少なくとも「大人の童心」は良識そのものであらねばならない。そこに指導性が内包されねばならぬからである。邪気のない、曇りのない、作意のない、極めて自然な天真らんまん、天衣無縫の利害を超えたものである筈。
スカウティングをやっている仲間のみが味わい得る境地であろう。
今一つ、つけ加えねばならぬ。それは、game には必ず相手があり、仲間が出来るということだ。
人と人とのつながり、人に対する在り方、思いやり、Caie、covei 責任そして「励まし」「扶けあい」「協働」(CO-operate)などという、生き方が知らず知らずのうちに身につくようになる。
利己的、独善的な横紙破りはgame をぶちこわす。ルールを守り、他の人々と結ぶことによってgame は成り立つ。
「なんとう」誌が24号も続いたのも、game だからである。イヤイヤながら「仕事」として科せられたらモウ続かない。
“スカウト百までゲーム忘れぬ”“雀百まで踊り忘れぬ”と、いう言葉があるが、私にはそれよりかこの方がピンと来る。
(昭和32年3月21日 彼岸の中日に記す)