30.自分のプログラムというものをよく考えよう
この半年にわたって私は相当各地のリーダーと膝をまじえて語る機会に恵まれた。そして、何処でも、プログラムという問題で悩んでいることを訴えられた。その、いうところのプログラムとは何か、と、聞くと隊のプログラム、地区のプログラム…時として班のプログラム、それを、どう作ってよいかわからないので、日連できめたものを出してほしい、と言われる。私は前後して、カブの講習を応援のため、各県をまわった井上茂氏からも同じような訴えがあるときかされた。
そんなものを中央で作って流したならば、それは隊や班の自主性、否々個人の人権をも無視した統制団体、例えばヒットラー・ユーゲントや、大日本青少年団になりますぞ! と、M氏が警告したという話も耳にした。再建10年とか、日連35年とかいわれている今日、いまもってそんなタヨリないというか、少年団的な、一律他力統制がプログラムだと考えている人が割合に多いのに、私はガッカリした。どうしてこんなにみんなは奴隷になりたがるのだろうか?
プログラムは自分のプログラムに出発する。自分は今、県コミである、或いは隊長である。または理事長である、とするならば、自分が今しなければならないことは何であろうか? 何に一番努めなければならぬのだろうか?
ここにその人の今のプログラムが出発する。隊員においても同様である。学校の勉強もあれば、家庭の用事もある。スカウトの修行もある。それらを計算にいれて何年の何月に2級になり、何年何月までに1級になっておかないと受験準備が出来ない。と、いうように、各自めいめい別々のプログラムが立てられるべきである。
そういう個人プログラムを全然指導してやらないで、群集心理で作ったり、指導者の側の都合で一方的に作った班のプロ、隊のプロに便乗させようとするのは危険ではあるまいか? 勿論、班とか隊とかいうもの自体にも自体としてもプログラムがなければならない。組織体であり有機体であるならば「あゆみ」があるのは当然である。しかしこれは班や隊が果たして有機体であるかどうかという吟味、分析にパスした上での話である。寄り合い世帯の、烏合(うごう)の衆みたいな班や隊には、有機体としての生命力が欠けているから問題外である。
そんな問題にもならんような、形だけの班、形だけの隊の、班プログラムや、隊プログラムで、個々の隊員の、大事な生活のあゆみを縛ろうとする大人の横着さを私はにくみたい。だが、勝負はもうついている。縛りきれなくて子供たちは逃げていった。どうすれば子供を逃がさずにいけるか?
こういうイミで、大方の人々はプログラムに悩んでいる。――これが本当の姿ではなかろうか?
もし、私の、診断どおりであるとするならば、「あなたは、スカウティングでないものを、スカウティングだと思ってやっている。」と、忠告してあげるほかはない。
(昭和32年5月9日 記)