28.少年がBSから逃げていないか
Boys are in scouting because they want to be and not because they have to be. They stay as long as the program satisfies them and only as long as it holds their interest and enthusion.
“少年達がスカウティングしているのは、したいからしているのであって、せねばならぬからしているのではない。彼等はプログラムが彼等を満足させる限りにおいてのみ、とどまり、そしてプログラムが彼等の興味と熱意とを保持する限りにおいてのみとどまる。”
この面白い言葉はアメリカの“Commissioner Service Manual”という書物にあるものである。実に端的にものの道理を説破している。英文としても中々面白い文章と思う。
一体日本のスカウティングは現在の処、何をもって少年達を引きとめているだろうか? と反省して見るのである。恐らく少年達はバッジや服装にチャームされ、キャンプやハイクに引きつけられ、一風変わった三指の敬礼やスカウトサインに一種の魅力を感じて、辛うじて隊員たることに満足しているのではあるまいか。
もし、それ以上のもの、例えば班生活の味わいとか、責任と義務の喜びとか、いうものでスカウトがやめられない分ならよろしい方である。最初は物珍しいからよいものの、キャンプの5~6回もして、こんなものか――と珍しさが薄くなると、丁度2級に半分なった頃になると、段々集会にも来なくなり新制高校に入る頃になると逃げてしまう――というのがありはしないか?
これは指導者の教養の不足、経験の乏しさもあろうが、それならそれでproject しようという熱の貧困の方が大きい。一年もすれば種ぎれになる。資料をかき集めるのはまだよい方で、それさえやらない。日本のBSは目下のところ指導資料が貧弱であるから探し求め得ないことも同情に値する。
英文の読める人達だけがアチラの資料を何とか利用している。けれども私は罪を資料難に帰するだけではイクジがないと思う。問題は指導者の創意工夫の欠乏、換言すればプロジェクトの不足に訴えねばならない。それよりもさらに何故子供達にプロジェクトさせて良いプログラムを自分等で作るよう仕向けないか? ――という点である。
経験のある大人でさえも中々プログラムを考案しかねるのに、まして、もっと新米で智能も低い子供にそんなことが出来るものか――と云う人もあるかも知れない。無論イキナリ立派なプログラムが出来ようとは予測しない。けれども、そういう方向に教育することがスカウティングではないであろうか? いつも大人の幹部の立てたプログラムや県連のプランした行事への参加ばかりに隊員が動かされていて、それでスカウティングなんだろうか?
前記の英文の言葉は指導者に対するボエンであって、プログラムもよう立てられんような指導者だから子供を逃がすのだ――という逆説的なイミを含んでいる。その点で天下りのプログラムを指しているようである。勿論指導者にその能力がないということは、指導者として致命的な欠陥である。といって、彼がプログラム編成の名人であったとしてもそれ故に彼が立派な指導者であるとは申されぬ。というわけは、子供にそれをやらせないからである。
子供にやらせないということは彼が名人であって得意だからだ。その結果はどうか? 彼は巧みに子供をアヤツっているが、子供自体は少しも育たないのだ。依然として、子供達は「せねばならぬから」やっている。という形だ。下手でもよいから子供にやらせる。そして作ったものをディスカッションする。評価する。そこに教育があり、子供は育っていくのではあるまいか?
得意になって指導者が引きずり廻している間は教育の教だけの世界であって、育はお留守になっているといわねばならぬ。子供にやらせるには、そこに分担というか割当(assignment)が必要である。割当はその各の子供の好きなことをとらせる。割当られた子供は責任と興味とを感ずるであろう。これスナワチ云うところのプロジェクト教育法の出発である。
次に子供は観察推理工夫をするだろう。指導者はそれに「方向ずけ」(orientation)をすればよいのだ。これがスカウティングの本道であって、その本道を歩く者がスカウトである。
服装やバッジに心をひかれている間は、まだカワイラシイ卵である。それが孵化しなくてはならぬ。それも大きいスカウティングの一つのプログラムだから大事だ。コワシてはならない。
(昭和25年9月12日 記)