26.新春自戒 ジャンボリー
今年は、第10回世界ジャンボリーと、第2回日本ジャンボリーの年である。
ジャンボリーなるものは、スカウトの祭典にちがいはないが、単なるお祭りさわぎには反対である。
戦後、諸外国の人々との往来が、航空機の発達にともない、はげしくなったため、鎖国的な日本人も、外人と接触する機会を多く持つようになっては来たものの、地つづきの大陸民に比べると、まだまだ“give and take”する機会が少ない。
そこへさして、戦後、日本にも混血人が殖えはしたものの、日本という国の国民編成は、あたかも、単一民族であるかのように、まとまって実に平和である。他国ではなかなかそうではないのである。
人種、民族、信教、国語、文字を異にする人間を、抱き合わせている国が大変多いのである。
それだから、おきて第4は、そういう差別を超えたヒューマニズムな「友誼」を、勇気を出して実行するよう、スカウトたちに望んでいる。
「スカウトは友誼に厚い」だの「スカウトは総ての人を友達と思い、総てのスカウトを兄弟として、正しく明るい社会を作る」――というような、誠に平盤、単調なおきてではないのである。もっと切実な、具体的な、国としての、悩みと苦痛を、治療せねばならんという祈願が、外国のちかい第4にうたっている。(スカウティング・フォア・ボーイズP17参照)
1937年、第1回インドジャンボリーにあたり、眼前に、第5回世界ジャンボリーが、オランダで開かれることがわかっておりながら、インドにおける人種、民族、宗教、そして印度独特の、先天的階級制度(種制――カースト――という)による、人間同士の闘争、反目、アツレキ、陰謀――それは生死、生命に関する――を必配し、ひいては大英帝国の統治の上に、これが大きなガンとなっている。この国難の打開という点からも、彼の「国に誠を尽くす」という実行の上からも、B-Pはもう立ってもいてもおられず、永い船旅をして印度にわたった。 時に、B-Pは80才の老人であった。しかるに、釈迦さえ達成できなかったその解決を、scouting は立派に達成していた。集まってきたバルテス族や、ベンガル族の少年たちは、仲よくキャンプをし、「もう、ぼくたちの時代は、お互いに首狩りをせずにすむね――」と云っていたという。(レイノルズの書物The scout Movement より)
ジャンボリーの本質は、このひとこまに要約されると思う。
ゲームを通しての、ヒューマニズムの実践――これである。(「スカウティング」昭和33年8月号 P1B-P生涯の絵物語の南亜と印度の項参照)
私はジャンボリーの企画者も、隊指導者も、よくこの点を心得て企画し、参加スカウトたちに了解させておいてほしい。と思う。私は、ジャンボリーを、単に訓練の“give and take”の場なり――と片づけてしまうに忍びないのである。前述のように、異人種、異民族、異宗教徒について、あまりにも接触する機会の少ない日本のスカウトたちにとっては、ことのほか、おきて第4実践のよきチャンスだということを指摘しておきたい。こうした努力の足らなかった点を自ら戒める。このことは、次の段階では、おきて12「スカウトはつつしみ深い」につながってくる。「スカウトは信仰の心をあつくして、そのつとめに励む。しかも謙譲の心を失わず、他人の信仰や主張や風俗を軽んじない」
即ち、世界的公民資質を、「実行することによって学ば」させる「場」――それが、ジャンボリー、特に、世界ジャンボリーの目的ではないかと思う。
今まで、その分析の足らなかったことを自戒する。結果的には、世界平和運動に寄与するであろうが、そうかといって、世界平和運動や、国際運動のために、ジャンボリーをやるのだ、といいきることに対しては、私は異議がある。
スカウトである私(我々)は、まず、その行動の第1歩を、いずれの場合でもちかい、おきてから踏み出さねばならない。そして、その実践(プロジェクト)の結果の反省や評価の終点は、これまた、どんな場合でも、ちかい、おきてに戻って、分析し評価されねばならないと思う。だからこのスタートラインと、ゴールラインとを無視した進行そのもの、運動だけのものを見て、それが、カリキュラムであるとみることは、早呑み込みであり、マトがはずれている。と、私は自ら戒める。
(昭和34年1月1日 記)