2010年01月19日

ちーやん夜話集24「スカウトの精神訓練」

24.スカウトの精神訓練
 北海道のスカウトの皆さん。新しい年を迎えておめでとう。みんな元気ですか。わるい感冒にやられた人はありませんか。雪国のお正月というものを知らない私には、想像しか出来ません。
 さて昨年1年中の、めいめいのスカウティングを反省されたことと思います。なんといってもジュビリーの年ということで、去年はいろいろのことがありました。
 今度極東委員会が出来たので、アジア各国の、スカウティングが一層、躍進することになると思います。スカウトの人数からいうと、日本はアジア諸国の中でも、インド、フィリピン、パキスタン、タイなどより少ない。
 少ないということは残念ですが、これらの国々は、ほとんど、政府または国家の事業としてやっているから多いのです。

 日本のように有志の者が金を出し合ってやっているのとちがいます。しかし、スカウティングは、元来、有志運動なのですから、やり方としては日本の方が正しい。正しいのに、日本はスカウトが少ない、ということは、我々スカウトに責任があると思います。よく父兄や先生方や一般人の理解がないとか、足りないとか、従ってお金も出来ないとかいわれますが、これはあたりまえのことです。なぜだろうか?
 それは――スカウト達が日々の善行に励んで、人のため、世のために尽くしていないからです。また、ちかいと、おきてを本当に日々守っていないからです。もし、これらに努めていて、立派な生活をしているならば、世人はスカウトはよいものだということを、おのずから認めるでありましょう。認めてもらうために、善行をしたり、ちかい、おきてを守るのでは無論ありません。よい生活、スカウトらしい生活をしていれば、自然人の眼にそれがうつるということになるのであります。
 近頃、文部大臣は、道徳教育をやる。と、いい出されています。それについて、よいとか、反対だとか、方法はどうするのかなど盛んに論議がたたかわされていますね。
 私はスカウトの立場から、これを考えてみました。
 道徳とは何か? これだけでも、色々の定義が出ましょう。私は、仮に、これをモラル(徳性)としておきます。このモラルというものは、センス(感性、感覚)によって出来上がる。センスがよいセンスであれば、モラルもよくなる。センスが低ければ、モラルも下劣になる、と思うのです。こう考えてみると道徳教育の今一つの手前に、センスの訓練がなければならん、と私は思う。
 ところが学校の教育では、センスの訓練をやっているかどうか? センスに関係のある情操教育は音楽や図工でやったり、国語でやっています。しかしこれは、センスの訓練そのものとはちがう、と思う。視聴覚教育が叫ばれて実施されてはいるが、視覚、聴覚を媒介として知識を修得するもので、方法にすぎない。視覚、聴覚、そのものの訓練ではなさそうです。
ところがスカウト教育は、センスそのものを訓練している。追跡にしろ、信号にしろ、結索にしろ、みんなセンスそのものを訓練している。センスの訓練を狙っているので、追跡屋や、信号師や、結索師を作るのが目的ではない。
 こう見てくると、スカウト教育は、センス(感覚)訓練に大きな比重をかけていることがわかる。それをさらに強化したものが、技能章であります。技能章は、それぞれの技能を身につけるということも目的の一つではありますが、同時にこれは、高度のセンスを磨くためのものだと私は考えます。
 今は亡き、ローランド・フィリップスという英国の初期の代表的スカウターの書いた「班長への手紙」の第1集を私は訳してみましたが、その中に彼はこう言っています。
 「ちかい、おきて、を実行しなさい。ちかい、おきてを実行する方法は、とりあえず技能章をとることから始まるのです。」と、私はボウ然としました。ちかい、おきてと技能章と一体どういう関連があるのだろうか?
 ちょっと見ると、そうたいした関係はなさそうなのに――。
 これは皆さん結局、スカウトセンスと、スカウトモラルの関係を、フィリップスは説いていると思うのです。
 即ち、ちかい、おきては、スカウトモラル(徳性)の基準であるが、その基準に達するには、スカウトセンスを磨かねばならん。そのスカウトセンスは、進級課目によっても磨くが、高度のセンスは技能章によって磨くのであるから、とりあえず技能章をとること。と、いうことになりそうであります。
 ところが私は、去年ある人から「技能章をいっぱいつけている者ほど精神訓練はゼロでした。」と、いう報告を耳にしました。この人はフンガイしていうのに「彼等は、技能章をアクセサリーまたはかざりと考えている。ケシカラン」と。
 私は、先の、フィリップスの言葉と照らし合わせ、こうもちがうものか、と、あきれたのです。即ち、技能章を、ただ技能章だけに考えている。ちかい、おきてとの結びつきをしていない。ここにまちがいがあるのです。
 「スカウティングの全ての作業はことごとくが、ちかい、おきてに結びつけられねばならない。」と私は結論づけたのです。
 ここに、一つ、英国流の面白い考え方を紹介しましょう。このローランド・フィリップスが「班長への手紙」第一集で、おきての説明を書いているのですが、その中に、日本でいえば、おきて第9の質素(英国も第9倹約)について、次のような意味のことを書いている。
 ――スカウトは質素である。倹約するというが、そのためには、救急法を知らなければならない。無駄な金をつかわないで、これを貯金save すること、無駄なことで人が死なないよう、これを助ける(save)することとは、どっちも、save である――と。
 今一つは、――手を洗わないで炊事をしたり、不潔な炊事具で炊事をする者は、おきて第10にそむく、と、いう考え方がある。おきて第10は、スカウトは純潔である――と。
(英国のおきては、10ヶ条しかない。日本のおきての第11条にあたる。)
 このように、スカウティングの、ありとあらゆる作業、技能、訓練は、すべて、ちかい、おきてに結びついている、と言うことを改めて、お考え下さい。
 私はスカウトの精神訓練について、と題して、これを書き出したのですが、ここまで書いてみると、この題目がおかしくなりました。というわけは、この中に技能訓練も入っているからです。精神と技能とは一本(一体)であるべきものだからです。
 最後にいうべきことは、すべては、ちかいの第1の「神または仏に誠を尽くし」という一点にしぼられる、ということであります。
 だから、確乎たる信仰というものが強調され、信仰生活が裏付けにならなければ、スカウティングは有終の美を発しないと思われます。
(昭和33年1月1日 記)

Posted by tsutsumi at 2010年01月19日 17:47
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