20.名誉とは
スカウトのちかいの前文に「私は名誉にかけて次の三条の実行をちかいます」とある。この「名誉にかけて」とは一体どういうことなのか? 指導者がスカウトにこれをどう説明すればよいのか? 私はかってある研修所の事前課題に、この問題を出したことがある。
その答案は、辞書で「めいよ」をひいてみたり、名誉心とか名誉欲とかを一応あたってみたが、どうもうまく考えがつかないという答えが多かった。然るに、おきての第一に、このことは明白に出ているのである。それに気づいて答案を書いた人は僅か3人位しかいなかった。おきてのヨミが足らないナーと私は直感した。
スカウトは誠実である。
スカウトの真の資格は信用され得る人間にのみ与えられる。嘘を云わず、ごまかしをせず、信頼されて託された任務を正確に行うことなどは、すべてスカウトの名誉を保つ基礎である。
以上がおきて第1の全文である。
多くの者は前文だけ暗記して全文を読んでいない。前文を除いた残りの文は本文でなく、説明文或いは副文であるという説がある。私はこの説に反対する。全文が本文である。これは故中野忠八先生(起案者だった)から直接私へのお話に従ったものである。
ただ、初級になる少年には全文の暗記は無理であるから前文だけを誦えることになっているにすぎない。然し少なくとも、15才以上の者は全文の暗記が出来ないこともあるまい。努力次第だ。もし暗記できなくても全文を朗誦するようにしたい。なぜか、というに、15才以上の年長スカウトは、一段とおきての実践に峻烈さを要望されるからである。
「信頼に値する人」とは「責任を果たす人」であり、「誠実な人」である。名誉とはそれに値するものである。
故に、誠実――責任――信頼――名誉、の四つは互いに原因であり結果である。「信頼される」ということが「名誉」になる。「自己を裏切らない」ということが責任の第1段階、すなわち「自分が自分に対する責任」を果たすことである。
「他人への責任」「社会への責任」「国への責任」などは、この自己への責任の土台の上にこそ建てられるべきものである。自分が自分に対する責任を怠っていたのでは、他に対する責任など建てようがない筈であるが、古来日本人は命令者(権威)に対して奴隷であったため、その方への責任が恐ろしくて自分への責任を放棄していた。基本的人権を自分から棄て去っていたのである。そしていかにすれば責任を免がれるか、転嫁し得るか、巧みに逃げるかの術を研究したものである。――現今でも。
こういう権威に対する屈従による自己否定の仕方は、本当の没我でも無我でも捨身でもない。自責の念に堪えんなんていうが、それは弁解にすぎない。自己が自己に対する責任をとことんまで尽くし果たして、それが不幸、果たし切れないときに身をすてるなら筋は通る。即ち、そういう時には他人に対する責任も併せて達成できないから、オメオメ生きていられないということになる。B-Pが「スカウティング・フォア・ボーイズ」の中の、責任という項で、船長は難破の時他の全員を助けるよう努力し、最後まで船に残って船と運命を共にすることを名誉だと教えられている。と記している。
B-Pはそれ以上の説明をわざとしていないが、かように自分の死をかけている船長であるから、人々は安心して乗船するのである。もし、まっさきに脱船するような船長だったら誰がそんな船に乗るもんか、と、いうことになる。つまり彼は乗客から絶対に信頼されている。それが船長たる者の名誉なのである。
不幸にして自己に、そして他の人々へ、国へ、神へ、最善を尽くしてもなお及ばなかったとき、ネルソンは“I have done my duty”と叫んで斃れた。duty という言葉に相当する日本語がないのは残念である。
「名誉にかけて」という言葉は、英語では「死をかけて」というほど絶対な厳しいものだとB-PはS.F.Bに書いている。
私は、これを「自発活動の極致」であると思うようになった。“かおりか光か、ああ、名誉!”薫りと光は、自発する。
(昭和31年4月4日 記)