2010年01月12日

ちーやん夜話集19「私見:ちかいの組立(2)」

19.私見:ちかいの組立(2)
 ちかいの三つを、概観すると――。
 第1は、神(仏)国、…のそれぞれに「誠を尽くし」、おきてを守る。というのである。この神、仏、国、おきては、どれも抽象的存在である。俗にいえば眼に見えないものへの忠誠である。且つ、人間以上の高いところに在るものへの忠誠である。

 最小限、これらの存在を、否定しないことをあらわす。だから神仏を否定した無神論者や、国を否定した思想の持ち主は、スカウトとして失格者である。心のおきどころの確かでない者、心の動向が無秩序、または有害であるような精神異常者、即ち、おきての無い者もまた失格者である。尊ぶべきものを尊ばないような思いあがった無法者ではお話にならん、ということになる。おきて第12に、これは伸びてくる。
 第2の「いつも他の人々を援けます。」というのは、自分よりも先に、他の人々のことを考えなさい、という意味がその本命であって「援け」る――という言葉は、まだ、具体的な行動をさしていない、と私は解する。
 前述のとおり「ちかい」は、発想であり決意であって、行動の、一つの手前の段階、即ち「意思」律をあらわすものと、私は思う。「行動」はむしろ「おきて」のがわで律するものと思う。従って、このいつも他の人々を援けるという意思が、おきて第3の「スカウトは人の力になる」という「行動」を起こすことになると思う。ある一部の者は、ちかい第2と「おきて」第3とは、同じことを重複して云うていると、非難するが、私は、そうは思わない。
 B-Pが「スカウティング・フォア・ボーイズ」のなかで、「この教育は、利己主義を利他主義に置き換えるものである。」という意味のことを説いている。(邦訳本P48、P478、他数カ所。)そのことを、この第2においてあらわしているものと、私は理解している。従って、自分個人のことは、一番あとまわしになる。即ち、ちかいの第3にはじめて、「自己」があらわれる。
 第3に「体を強くし、心をすこやかに、徳を養います。」と。
体を強くし――と、一口にいうけれども、その意味は実に広大である。私は、近年病気をして、色々と反省させられた。60才をすぎてから起きる疾病の遠因は、殆ど全部が、少年時代に、無意識や不注意、乃至は無知、または強がり、No care に原因していることを知った。このことは後日、詳述したいと思っている。
 心をすこやかに――この言葉も中々、やさしいようで、むつかしい。現在の私としては、唯、漠然と真、善、美への追及とだけ受け取っているにすぎない。「歩く時には、泥んこの水たまりを見ないで、かわいているところを見て歩きなさい。」と、言ったローランド・フィリップスの説話(「班長への手紙」、邦訳本「パトロールシステム」「班長への手紙」合本のP134参照)は、誠に示唆深いものがある。結局、「おきて」第10につながる決意であり、意思である。
 徳を養います。――については、今度発刊された雑誌「スカウト」4月号(P40~41)に私が書いたように、他人の幸福をはかることを意味する。それは、B-Pの80才の時のメッセージと、最後のメッセージから解明できる。(「ボーイスカウトとはどんなものか」P32、P34参照)
 第3の、この自己修練のちかいが、単に、自己中心的に、自分さえよければ、で、ないことは、この末文の「徳を養います」の一語によって、いみじくも、道破されている。この点に、留意したい。
 さて、それでは、徳を養うためには、換言すれば、自己をささげるには、どうしても「小我」をすてて、「大我」に活きなければならない。このためには、ゲーテのいわゆる「至高なるもの」への、敬仰、思慕、追従が必要である。ここにおいて、私は「ちかい」第1に、もどって、仏(私の場合)に国に、誠を尽くすのではなかったら、私は、小我にとらわれて一生を曇らせるほかない。
 このように「ちかい」には第1もなく、第2、第3というような順序もないのが本当である。円周みたいに始めも終わりもない。(この稿文には、仮に、第1、第2、第3としたが――)だから規約ではどれも皆一としてある。
 一番むつかしい言葉は、「誠意を尽くし」である。これについては、以前、叙説したと記憶するが、これは“To do my Duty”にあたる日本語である。デューティ(Duty)は、邦語の「つとめ」「義務」に近いのだが、権利に対する義務では決してない。日本人の普通いう義務とは、権利あっての義務、義務あっての権利、即ち相対的の義務をいう癖が多い。この方はObligation(義務)であって、Duty ではあるまい。Duty は、絶対的なもので、それの対象は無い。そうして自発的である。なんらの交換条件や、反対給付を予想しない義務(つとめ)だ。
 命令もされず、制圧もされず、全くの基本的人権の自発活動からくる奉仕である。これを「誠を尽くし」という表現にしたことは、誰の提唱なのか知らないが、中々味があると私は思う。(中野忠八先生のような気がする)
 さて、この「誠を尽くし」の程度、どの程度の誠なのか、これはスカウト各人の年令、知能、力量、識量、境遇によってその段階は千差万別であるべきで、それ自体に、進歩の軌跡をもつものであるから、一定の基準をもって律するのは、まちがいである。スカウティングの妙味を内包している点からみても、実に味がある言葉だと思う。
 最後に――。このちかいは、米国のOath または、Promise の、翻訳である――と言って非難する者がある。ある消息通の言によると、終戦直後、進駐軍当局は、日本BSの再建に関して、多分に疑念を抱いて、軍国主義の再建を警戒し、中々許可しなかった。そこで、米国のと同じ、ちかい、おきてにしてその疑念を解くため、且つは再建を急ぐ必要上、翻訳を提出したのだと言う。よって独立達成後は、これをやめて新規に立案すべし、という意見もあった。
 しかし規約の改正に際して、このままで別に弊害はないということと、ちかいやおきてのような大切なものを、軽々しくまたは感情的に改正することは適切でない、ということでそのままとされた。
 けれども、「徳を養います」という部分は決して翻訳でない。「徳」という概念は東洋的なもので、いわば日本独自の考え方である。私は「徳を養います」という言葉だけをもってしても、日本式スカウティング(もしそういう言い方が許されるならば)を端的にいいあらわしていると、誠にうれしく思うのである。
(昭和35年4月11日 記)

Posted by tsutsumi at 2010年01月12日 11:12
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