18.私見:ちかいの組立(1)
前稿で、ちかいは、実は、ちかひであることを説明した。ひは「たましひ」のひであり、漢字化すれば「霊」であることをのべておいた。さて、なぜ「誓」と書かないのか? これについて私の知っていることを付記しよう。
戦前の日本連盟が、「誓」とか「掟」とかという表現をことさらしないで、「ちかひ」「おきて」と書いたのは、理由があった。仄聞するところによると、当時理事長だった故二荒芳徳先生(前総コミッショナー)が、倭訓を強調され、誓とか掟は、どうも他律的にひびいて面白くない。たとえば、おきてとは、心のおきどころの「おき」と、方向を示す「て」という言葉の混成語である。それを「掟」と書いたのでは、そういう意味が出て来ない――という説明であった。「この土手にのぼるべからず」という立札にある「掟」みたいで――と大笑いになったそうである。そこで同じような理由で「誓」という字は敬遠されて「ちかひ」が用いられたのであった。私はこれは誠に卓見だと思う。第一、感じがよい。漢字でない方がカンジがよい――。
さて「ちかい」は、前言葉があってから、三ヶ条が頭をならべて表現されている。前言葉にある「私は」という言葉が非常に大切で一人称単数をつかう。普通の会則とか、宣言には「われわれ」とか「我等」とか「吾人は」とか複数を用いるのが日本人の癖である。悪くいえば、多数をたのむいい方が好きな国民である。
ところが前言葉では「私は」である点に留意されたい。これは基本的人権に基づいた発言をあらわす。ひとは、どうあろうとも「私は」である。その上、「自発活動」そのものである。もう、これだけで、スカウティングの在り方が明示され尽くしていると私は思う。
その次に問題になる言葉は「名誉にかけて」である。この「名誉」とは何か? については、前に述べておいたから詳述をさけたい。要するに、ウソやイツワリでなく、本心からちかう意味の最大級の表現である。昔流に云えば「刀にかけて」であり、「天地神明に誓って」となろう。
その次に「実行を誓います」の言葉。これでわかるように、「ちかい」は、まだ、「実行」そのものを指していない。「実行」そのものの部は、「おきて」の方にある。この段階はまだ「発想」の段階であり「決意」の段階だと私は解する。「意思」の設定なのだ。これについては、あとで、「ちかい」の第2と「おきて」の第3との相似点と同時に、異同点の説明の時、詳述したい。
それよりも、私は、最後の「誓います」の「ます」に注意を向けたい。「誓いましょう」でも「誓いました」でもなく、明らかに「誓います」という「現在形」である。そんなことアタリマエダ――と、一笑に付する読者があるだろうと思うが、私は、一笑どころか真剣ですぞ! 即ち、これは、常に現在形であり、永遠に現在形である。瞬間々々、Every Moment に「誓います」なのである。だから、いつも、いつもスカウトであり、今の今もスカウトであり、Always a Scout であるわけです。
(昭和35年3月17日 記)