15.自発活動(その2) 日本人に欠けているもの
朝から晩まで、何事も自発活動、自発活動――と思いながら一日中何かをやっていると、とても愉快になる。
生活の自主性がハッキリ出てくる。多分これは健康にも良いだろうと思う。こういうあいだに、スカウティングが積み重ねられてゆきつつあるように思われる。なんといっても自分のエンヂンがかかっているのだもの。
さりとて、自発活動なら、どんなことをしてもよい――とはいえない。本能のままに、コントロールなしに、衝動にかられて狂犬の如く盲動してもよいのだ、とはいえない。
他人に迷惑や損害を与えても一向にかまわん、という一方的な自発活動では目茶々々である。スカウティングは自発活動をモトとするが故に、その自発活動の在り方、と、いうことが極めて大切である。その在り方を自得するために、観察力、推理力、の錬磨をB-Pは、まっ先にあげている。これがスカウティングの基本になっている。いやいや、それよりもっと基本のもの――三つの「ちかい」と十二の「おきて」――。これぞ自発活動の在り方を示した道標である。我々の自発活動は、この基本線に沿うて発動されねばならぬ。
次に我々の自発活動は、何に向かって投入されるべきか? 私利、私欲のためや売名のためでないのは云うまでもないのであるが、これをもっとハッキリさせたい。我々の(私の)自発活動は「組織体」に投入されねばならん、と私は思う。いいかえれば、せっかく、投入した自分の自発活動が、「組織体」に何程かの貢献をプラスするのでなかったら、その労作はもったいないことだが点にならなくて「残塁」に終わってしまう。全く惜しい。
そんな下手なゲームはやりたくない。「組織体」に投入するためには、自分の「分担」または「役割」がハッキリしていなければならない。自分ご自身においては勿論のこと組織体のメンバー全員にもハッキリしていなければならない。これは必須条件である。同様に、自分以外のメンバーの、それぞれの分担、役割についても私は充分よく知っていなければならない。そうでないと協働(CO-operation)がとれないのみか、自発活動の鉢合わせや、対立や、行きすぎや、縄張り争いや、功名争いが起きる。その結果、組織体は崩壊する。
現在、日本に、こういう下手くそなゲームが毎日くりかえされている。政争、組合争、団体の内紛、等々。それは、当世の成年層の人々が少年時代に「組織体」訓育を経験しなかったセイである。班制教育というものは、この訓育の実践と練習のために存在するのだ。組織共同体に対する各自の自発活動の投入と、「分担」「役割」を通じての協働を、少年時代から身につけさせるためB-Pが考えた方策である。
それは成人の暁、能率高い公民になるべき狙いに叶う方策なのである。我々は、日本人一般が、一番欠けている組織体生活というものを、根本から築き上げて、次代の国民を仕立てるという大仕事に従事しているのである。而してその試練の第一歩は「班制」いかんにかかっている。
もっと、もっと深く、組織体というものを考えよう。君の班は果たして組織体になっているかどうか? 君の隊は? 君の地区は? 県連は? 日本のScouting は往々にして「組織体」でなく「個人商店」になりがちである。
これは、株式組織に切り替える以前の創業時代そのままの状態にとどまった形といえる。「個人商店」のままでは発展のしようがない。たとえ強力無比な一個人が、一生をかけて経営したところで、個人の力だけではたかが知れている。それは他の人の自発活動を育ててやらない、という大きな教育上の欠点を内包している。故に二重三重のマイナスとなる。これは経営面だけにとどまらない。
プログラムというものも、組織体になりきった暁でないと本当のものは生まれない。個人商店のプログラムでは、思いつきや、ハッタリや、宣伝の域を脱しきれまい。個人商店は、人間を利用価値の面だけで扱う。利用価値のあるあいだはコキ使い、利用価値がなくなればヘイリ(弊履)の如く打ち棄ててしまう。人を育てるとか、長所を伸ばすとかいうような教育活動はソロバンにないのである。だから、本当のプログラムはないのだ。あるのは行事(Event)ばかり。それも、いかにして自己の名声を持続するか、を重点とした独善的企画にすぎない。
次代の日本人は、もはや、そういう旧態依然たる企画と、ボスの手を離れた仕組みの中で育てられなければならない。そうでないと、子供たちの折角もり上がった自発活動の伸びる道がない。彼等は、失望のあまり退隊してしまう。星の夜、胸一ぱいの希望と夢を抱いて、三つのちかいをした、あの、神秘な幽玄な、入隊式の日のことは、裏切られたことになる。一体全体、どこに病因があるのか?
下手くそなゲームぶり! 残塁につぐ残塁。すべては在り方の研究不足。
(昭和30年7月30日 記)