14.自発活動(その1) 人に対する忠節をつくすのか?
歎異抄(たんにしょう)という親鸞(しんらん)上人(しょうにん)の書きのこされた本の中に「親鸞は弟子を一人も持たない」という言葉がある。
これは師弟だとか、教え子だとかいう特殊関係がそこに生ずるとき、法(この場合は仏法)に従わないで「人」(仏語ではニンと読む)に従うようになる。これは恐ろしいことで、師の方は人情にひかれて妄執にとらわれ、弟子の方は法を忘れて人(ニン)にすがりつき、結局師弟もろとも溺死するということを戒められたサトリであると承っている。
だが、いま一つには、弟子が正しき法に従ってサトリををひらくということは、弟子自身の自発活動に基づくものであり、その自発活動を師匠という圧力でゆがめないよう、その者の本来のペースのままで育ててやりたいという深い愛情に基づくものだろうと私は考える。
弟子が師にすがりつこうとするのを、払いのけるその心は無情か、非情か、一応不人情のようであるが、そうしなければ菩薩道の修行がやってゆけない切々たる苦衷を「弟子一人も持たない」といいきったものと味われる。親鸞は、自発活動を、かくの如く厳粛に扱っていたと思う。
児童憲章(そんなものがあったことを忘れている人も多かろうが)の中に「児童は総て人として尊ばれねばならない」と規定されている。一体、児童の何を尊ぶべきなのか?
「人格をだ!!」と、誰かが叫ぶ。「自発活動をだ!!」と、私は叫びたい。結局同じことになりはするが、あとのいい方の方が、より具体的だと思っている。子供を私有物だと考える母、これは母性愛のゆきすぎだと批判される。子供は国有物である、と、何年か前の全体主義的国家主義者は叫んだ。児童憲章は、それを拭い去ろうとしているのだが、さて現実はどうであろう?
スカウティングの一つの要素に「スカウティングに対しての忠節心」或いは、「道に対する忠節心」「この運動への忠節心」ということが要望されている。世界大戦後のスカウト国際会議のテーマにさえなった。この言葉の意味、その解釈ならびに忠誠心のあり方については決して一様でなく、色々の考え方があると私は思う。
しかし、何れにせよ、道とか運動とか、スカウティングへの忠誠心であって、「人」に対する忠誠心とは異なる点を注目したい。「Aさんが理事長をしているあいだは、僕はひっこんで第一線に出ませんよ。」とか「あんな奴がコミッショナーだなんて笑わせる、うちの隊は、自分とこだけしっかりやっとればそれでええ。当分地区の集会には欠席ですわ。」と、いうような声をよく耳にする。これは皆、「人」に対する忠誠をやっているわけで余りにも、「人」にこだわりすぎている。日本のスカウティング、40年の歴史をもちながら伸び育たない原因の一つである。「法」(または「道」)と、「人」と、そのどちらに君は忠誠を尽くそうとしているのか?
話を元に戻す。しかし、弟子のがわからは、どこまでも師と仰ぐべきである。「たとい師の法然上人にだまされて一生を台なしにしても、私は一つも後悔しない」と、云った親鸞上人のあの信じきった師への尊敬は絶対である。であるからこそ、師になってからの親鸞には非情にならざるを得ないことになる。「人」への忠誠心と「法」或いは「道」、我々の場合は「スカウティング」への忠誠心との岐れ目である。君は、どの道を選ぶか?
君の自発的活動にまかせるほかはない。それが、君のスカウティングなのだ!!
(昭和30年6月18日 記)