7.初夏随想・指導者のタイプ
隣の家から金魚を3尾もらった。早速ガラスの金魚鉢を買って来て入れた。一本の金魚草が入れられており、底の方にはきれいな小石が沈んでいる。
それを見ていると、いかにも初夏の気分がするし、見とれている自分は童心にかえったようである。
金魚は、赤と黒と、そのまだらとの三種でまことに鑑賞に値する。水の深さは25センチもあるので、彼等は上ったり下ったりしてかなりの運動をたのしんでいる。
あくる朝、私は床の中から金魚鉢を眺めた。その小さい宇宙の中には、美しい朝の光線によって、平和な小世界が、たしかに実在している。造物主は、まことに霊妙な制作をし給うたものだと感心した。あの小さい魚の体内には、呼吸器もあるし消化器もあるのだ。骨も血管も神経もある。感覚器官や運動機能もある。生命体、組織体、有機体として一応完備したその個々のものである。その個々は絶対的個体であって、その一小部分ですら他の生物と取り替えることの出来ないものである。
彼等は、金魚草にたわむれて遊び、水中の酸素を吸い、小石の苔を食う。動物、植物、鉱物の関連、相互扶助、共栄、バランス、そして調和から来る平和の世界が示されている。これは、スカウティングの在り方への示唆のようである。
けれども、金魚たちは大海を知らない。それを知れ、というのは無理である。彼等は塩水にむかないからである。
そこに限界というものが厳存する。
スカウティングは、まみずでもあるししおみずでもあるらしい。そのしお水は世界の七つの海にあふれ、五大陸の岸を洗う。スカウティングは、五大陸、七つの海にゆきわたっている。
その塩水に、世界の少年少女や青年、そして大人までが洗われ、浄められ、毎日毎夜を幸福に暮らしている。平和に。これは金魚鉢の、もっと、もっとでっかい一種ではあるまいか。
もしかして指導者たちが、もう、スカウティングの免許皆伝を得たかのようにうぬぼれるならば、大海を知らない金魚と変わるまい。
金魚や金魚鉢には限界が厳存するが、スカウティングには限界がない。
人間には悲しいかな限界がある。限界のある人間が、限界のないスカウティングと共に在りたいと念ずることは、また、念じてそれが叶えられつつあることは、本当に本当に感謝にたえないよろこびである。
(昭和33年6月16日 記)