4.スカウティングのXとY
XとYというとこれは二元方程式に用いる符号である。スカウティングという方程式にもXとYという二元があると思う。
私は、Yという符号を教育訓練という符号に用いる。即ち隊長やその他の指導者はこれに当たる人である。副長以下上級班長、班長までに及ぶだろう。隊指導者は講習会、研修会そして実修所などのコースで勉強するが、これはYの勉強である。スカウティングは教育であり、訓練であり、即ちYである、ということは決して誤りでない。ゲームであるが訓練である。レクリエーションではない、と。
カブからだんだん年令がのぼってBSになりSSになる。ここまでの段階は全てYである。彼等は世間の小学生、中学生や高校生たちと何かちがう教育訓練をうけている自分を意識し、それを誇りとし名誉としている。そういう対象の指導にあたっている指導者たちにも、普通の大人、社会人などと違ったものを自分の生活に感じる。
それは決して悪いことでもなければ、まちがいでもない。ところが、今ローバースのことを考えている私には、RSもやはりYでゆくべきか? という問題が起こっている。そして、Yの部分もあることはあるけれど、いま一つのものがある。それはXだということを今考えている。即ち教育指導という求心的なものと反対の方向(反対の方向という表現は極めてデリケートである。)として遠心的なもの、これをXと名づける。ただし遠心とはいうものの、これは決してスカウティングから足を洗って外れることではない。足は依然としてスカウティングの核心についているのだ。今私がデリケートだというたのは、その点である。青年期になると、今まで辿ってきたものの逆を行ってみたい気がする。心理的にはレジスタンスである。こういう年頃にRovering があるのである。その意味で彼は二元方程式を解かねばならぬ。
Xとは運動(movement)としてのスカウティングのことを私はそう表現する。即ちスカウティングは決して教育訓練のみではないということである。movement としてのスカウティングがあるということを考えたい。換言すれば、頭初述べたようにXとYの二元であるということを。
このXとYのバランスがとれていないとスカウティングは発展しない。日本にスカウティングが伝来して48年になるのに、これが一向に広まらない原因は、遠心力にあると私は診断する。十人が十人、百人が百人、皆が隊長になる必要はない。君たちが永年スカウティングでうけたご恩をお返しする気があれば一介のRSとしてこれを果たす道は立派にある。即ち立派な家庭人として、良き社会人として、スカウティングで得たものを遠心的に働かせて本当に、ちかいの第2、おきての第3を実行する道である。真宗で説く還相回向であり、感謝報恩の生活である。
このmovement の在り方が本当にスカウティングをPRする道であろう。私どもは、日本のスカウティングが、年少のCub や、Boy あたりの年令者に偏していたため、考え方が永年、教育訓練の面(即ちY)にのみ執着してしまい、実修所に入らねばリーダーでないように思い、教育の万事をその線で割り切ろうとしていた。然るにSSからさらにRSに対象がのぼって来た今日、卆然として反省させられたのである。むしろYは、Xになる前提であり、課程であるとさえ思う。本当のスカウティングはこれからなのだ。Xなのだ?
The enthusiastic Scout has suffered from this in the past and we have been accused of making ourselves into “peculiar people,”. If we are to be able to give of our best to Scouting, we must be in close contact with community life.
「こんなことか今まで熱心なスカウトは悩んだ。我々も自分を“変人”にして来た罪を犯している。我々が全力をあげてスカウティングに尽くし得るためには、公共社会と密接な接触を持たなくてはならない。」
これはロウオーラン氏(英国の総長)が“Plan for Rover Scout”の序文の末尾に書いた一文である。
私自身、変人になっている。スカウト狂人といわれる人もあって中々面白い話もあるが…これも悲しいかなスカウティングが世間で特殊扱いされていることから起きている。私は日本のRovering を築くことによってこれまでの不備を充足し、日本のスカウティングの完成を期したいと思う。
(昭和31年6月5日 記)