盟友中村知の後世にのこしたものは
ベーデン・パウエル卿が英国で、ボーイスカウトを始めたのは、今から55年前の事(昭和37年当時)である。その頃、日本の文部大臣は牧野伸顕で、よく英書を読む人だったので、すぐこれを知り、その進んだ青少年の社会教育法に眼をつけた。それで、時の広島高師(今の広島大)の校長の北条時敬が、英国に道徳会議の代表として出張するにあたり、この調査をもあわせて依頼した。北条はこの前年に英国で発足したこの教育訓練を見て感心し、その文献や用具を揃えて持ち帰ったが、その直前内閣が変わったので、文部省では、折角のこのよき材料をもてあまし、これを北条に渡した。
そこで北条は、彼の校長をしていた広島高師の附属中学校の生徒にこれを伝え、6個隊を作ってボーイスカウトのような訓練を試みたのであったが、たまたまその一つの城東団という隊の中に、わが中村知少年がいたのであった。彼は子供心にこの野外生活の訓練に大きな魅力を感じ、恩師北条の精神指導に打たれた。そしてこれが彼をして、一生この運動に心身を捧げしめるに到ったのである。
中村知はその後拓大を卒業し、さらに京大で東洋史学を専攻し、大阪府立高津中学(現高津高校)に教鞭をとった。
その頃、わが国にも、少年団運動が起こった。大正3年頃、京都には中野忠八が、まず少年団を作ってこのベ卿のボーイスカウト式の訓練をはじめたのに、彼も大いに興味を感じて、中野とも親しく交わり、連絡もとって、彼の高津中学の生徒の中の希望者を集めてボーイスカウトをつくり、彼はその隊長として、スカウトの訓練を実施した。
大正11年には、少年団日本連盟(第一代総長、後藤新平)が結成されたので、彼は喜んで他の同志とともにこの傘下に入り、特に佐野常羽に師事した。この佐野は、英国で親しくベ卿の知遇を得て教えを受け、またボーイスカウトの訓練の本山ともいうべき、ギルウェル実修所に学んで来た人で、大正14年には、富士の山中湖畔で、日本ではじめての指導者実修所を開いた。彼は勇んでその第一期生となって修業し、佐野の人格指導に傾倒した。その後彼は佐野にも愛され、ずっと彼の教えを受け、1929年には英国で世界ジャンボリーが開かれたので、佐野に従って渡英して参加、続いてギルウェル実修所にも学んだ。それで彼は、自信を得、ますますこの道に精進し、一方に高津中学ボーイスカウトの実際指導をしたり、大阪連盟の改造にあたり、一方では佐野に従ってますますこの道の指導者養成面の指導と研究に没頭した。
彼には、少年指導に必要なユーモアがある。それでなかなか話題をまいたものだが、その一つを紹介すると、世界ジャンボリーへ行った時、豪雨がきてキャンプの道がドロンコになったので、彼は日本からゲームのためにもって来た竹馬に乗って悠々濶歩して、世界の少年達を驚かせたが、佐野からは、その茶目っ気を叱られたそうだ。また、彼は詩と音楽を勉強して、沢山のよいスカウト・ソングを作詞、作曲した。どれも、彼の体験からほとばしり出たもので、スカウト気分がよくあふれた曲だが、その中にはなかなかこのユーモアのきいたものもあ
って、少年達に愛唱されている。
戦後、わがスカウト運動が再建されるや、指導面に円熟した彼は、本部の専従指導者となって実際指導を行い、那須の常設野営場長を5年務めたが、その間に不幸眼底出血で倒れた。それでもう荒行はできなくなったが、その不自由な眼で、彼は天眼鏡を使って、ベ卿の“Scouting for Boys”などの宝典を次々と訳出して日本スカウト道にバイブル的な光を与えた。もう一つ彼の高津時代の隊員たちは、今になって皆立派に成長し、あるいは能力ある外交官、学者、技師長などになって活躍しているが、その中の数人は、また現在の日本スカウト運動の最有力な中堅人物となっている。われわれは「弟子を自分より偉くつくる」ことを誇りとしているが、彼こそ身をもってその範を示した男である。
第一代後藤総長は「金を残したり、仕事を残したりするより、人を残して一生を終わるこそ上の上たるもの」といわれたが、彼こそこの言葉を実行して一生を飾る人である。
昭和37年7月記
総長 三 島 通 陽